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ローデシア問題

ローデシア問題とは、英領南ローデシアが、宗主国のイギリス政府に対して、一方的独立宣言を行い、反乱を起こしたために発生した問題である。ここでは、スミス政権の誕生、そして、1965年11月11日の一方的独立宣言から、1980年のローデシア崩壊までを紹介する。

スミス政権の誕生と「白い三角同盟」

1964年4月、フィールド(Winston Field)首相に代わって、首相となった前大蔵大臣スミス(Ian Douglas Smith)は、首相就任にあたって、「私が生きているあいだに、アフリカ人ナショナリストの政府が実現するとしたら、わが政府の政策は失敗したことになるであろう」と語り、一方的独立宣言(Unilateral Declaration of Independence, 以下UDI)に備えて、与党ローデシア戦線(the Rhodesian Front)による国内支配体制を確固たるものにするべく、アフリカ人民族主義運動に対する弾圧強化、白人反政府分子に対する圧迫、議会における絶対的地位の確立、対英経済的独立への政策を実施した。

特にスミス政権が力をいれたのは、アフリカ人民族主義に対する弾圧で、そのために、1962年6月23日には、司法相兼治安維持相デュポン(Cliford Dupont)を、イギリス政府からは「過激論者」と言われていたラードナー・バーグ(Desmond Larder-Burke)に交代させた。そして、アフリカ人民族主義運動を壊滅させるため、多くの弾圧政策を実施した。

スミス政権が、実施した政策は以下の通りである。1962年8月11日に発表された治安維持法による拘禁期限の延長、同年8月21日のハイフィールド・アフリカ人居住地区に対する非常事態宣言と、PCCとZANUの非合法化、アフリカ人民族主義系新聞「デイリー・ニューズ(Daily News)」の発禁処分、同年10月7日のハラレ・アフリカ人居住地区に対する非常事態宣言、同年11月7日のルサカで発行されている週刊誌「セントラル・アフリカン・メイル(Central African Mail)」の国内販売禁止、そして、1963年2月のジンバブエ・アフリカ人労働組合会議(The Zimbabwe African Congress of Unions)の非合法化、などであった。

イアン・スミス

こうした、アフリカ人民族主義者に対する、弾圧措置によって、スミス政権は組織的な民族主義運動を停止状態に追い込むことに成功した。また、ローデシア戦線(RF)は、20世紀初頭以来、白人支配体制の中に組み込まれていた、アフリカ人のチーフ(Chief)やヘッドマン(Headman)などの伝統的指導者の復権を推進し、それらの伝統的指導者を通じて、間接的にアフリカ人を支配しようとしていた。

スミス政権は、アフリカ人に対してだけではなく、白人反政府活動家に対しても圧迫を行った。スミス政権による、白人反政府活動家に対する圧迫は、大きく別けて2つの方法があった。1つ目としては、白人農園主が中核となった、RFの熱狂的支持者による白人反政府活動家に対する、物理的・心理的な攻撃であり、2つ目はスミス政権自身による国家権力を用いた白人反政府活動家に対する圧迫である。

RFの熱狂的な支持者による活動は、1962年総選挙あたりから過激化が始まり、フィールド首相の失脚前後から顕在化していった。RFの熱狂的支持者達は、RFの政策に異議を唱える者に対して「売国奴」、「臆病者」、「共産主義者」として非難していた。また、RFの熱狂的支持者達は、保守系新聞社に対しても脅迫なども行っていた。さらに、1964年10月1日に行われた補欠選挙において、彼らはローデシア党(Rhodesia Party, 旧RNP、以下RP)から立候補した前ローデシア・ニヤサランド連邦首相ウェレンスキー(Sir Roy Welensky)を「売国奴」、「臆病者」、「共産主義者」、「血なまぐさいユダヤ人」と呼んで誹謗するとともに、RPの集会に対して悪質な妨害を繰り返し行ったのである。

トッド前首相

一方で、スミス政権による白人反政府分子に対する圧迫は、1964年10月23日のローデシア陸軍総司令官アンダーソン少将(Maj. Gen. John Anderson)の解任、同年11月26日の民間放送「ローデシア・テレビジョン」に対する管理統制の開始、1965年10月18日のローデシア前首相トッド(Garfield Todd)の拘禁と続き、1965年11月5日の国家非常事態宣言へと帰結するのだった。スミス政権は、このような反政府分子に対する弾圧や圧迫を通じて、国内的支配権を強化することに成功した。

また、RFは1964年10月1日の補欠選挙、1965年5月7日の総選挙を経て、議会における絶対的地位を確立することになる。まず、1964年10月の補欠選挙では、2議席をめぐってRFの候補2人と、RPの候補2人のあいだで争われた。RF候補のデュポンが1079票を獲得したのに対して、RP候補のウェレンスキーは633票にとどまり、他の1議席もRFの圧勝だった。さらに、1965年の総選挙においては、RFはA名簿50議席のすべて(22議席は対立候補なし)を獲得し議会における絶対的多数を確立した。

スミス政権は、こうした、国内における基盤強化だけではなく、UDIを実施した場合に考えられる、国際的な孤立状態に備えるため、白人支配国家である南アフリカと、アンゴラとモザンビークを植民地とするポルトガルに接近していった。ローデシアが積極的に南アフリカやポルトガルに接近し始めたのは、スミス政権になりUDIが具体的に政治日程に上り始めた、1964年4月以降だと考えられる。その結果、1964年11月30日、ローデシアと南アフリカの間で相互の通商上の特権を認めた通商条約が調印され、さらに1965年3月3日、南アフリカ蔵相デンヘス(T.E.Donges)が南アフリカ議会において、今後15年間にわたって年額250万ポンドの借款をローデシアに対し供与するであろうと述べたことによって明らかになった。また、ポルトガルとの関係は、1964年8月に、ローデシアがポルトガルと秘密交渉を行っているという情報が流れ、1964年12月22日、モザンビークのベイラ港とローデシアを結ぶ原油パイプラインが完成し、1965年2月24日には新通商協定が締結された。そして、スミス政権は1965年6月に南アフリカ駐在ローデシア外交代表を、さらに同年7月にはポルトガル駐在外交代表をそれぞれ任命し、ローデシアは南アフリカ、ポルトガルの両国と密接な協力体制を確立したのだった。この「白い三角同盟(Tripartite White Alliance)」と呼ばれた協力関係は、1975年4月にポルトガルでクーデターが発生し政治体制が変わることによって崩壊するまで、ローデシアの白人政権を支える重要な役割を果たした。

ローデシア紛争の勃発

スミス政権によるアフリカ人解放組織に対する弾圧に反発したジンバブエ・アフリカ民族同盟(Zimbabwe African National Union, 以下ZANU)は、1964年7月、RFの官僚を暗殺した。ここから、ローデシア紛争が勃発したと言われる。

1965年11月11日のローデシアによる一方的独立宣言により、アフリカ人解放組織は闘争を激化させて行った。そして、1966年4月22日、ジンバブエ・アフリカ民族解放軍(Zimbabwe African National Liberation Army, 以下ZANLA)のゲリラ部隊とローデシア軍は、シノイアで最初の大きな交戦を行った。

戦闘結果はゲリラ部隊が撃破されることとなったが、この日をアフリカ人解放組織は「チムレンガ・デイ(Chimurenga Day)」と呼んでいる。ローデシア紛争は、ローデシアが崩壊するまで継続されることとなった。

スミス政権の対英独立交渉

ヒューム英首相

スミス首相による対英独立交渉は、1964年5月からヒューム(Sir Alec Douglas-Home)英首相との間で書簡を往復するという形で開始された。スミス政権のローデシア独立における基本姿勢は以下の通りであった。

  1. 白人支配体制における独立達成
  2. アフリカ人の参政権に関する非妥協的態度
  3. 交渉決裂の場合のUDI

1964年9月7日から10日には、ロンドンにおいてスミス首相就任後、はじめてのローデシア独立問題に関する首脳会議が開かれた。会談においては、スミスの独立要求が、ローデシアの住民の総意にもとづくものか否かに議論が集中した。これに対して、スミス首相は、白人の独立に対する民意は、現行の選挙資格による国民投票によって、また、アフリカ人の民意は、アフリカ人のチーフおよびヘッドマンの合議体(Indaba)を召集することで知ることが出来るとした。しかし、イギリス政府は、チーフおよびヘッドマンをアフリカ人の代表とすることに難色を示し、両者の主張は平行線のまま会談は終了した。

スミス政権は、ローデシアの独立要求を正当化するため、1964年10月20日から26日にかけてインダバを召集し、さらに同年11月5日、「1961年憲法にもとづく独立に賛成か」という国民投票を実施した。その結果、インダバでは満場一致でローデシアの即時独立を求める決議が採択され、国民投票においては総投票数の90.5%が独立を支持したのであった。

ウィルソン英首相

スミス政権が、独立要求を主観的に正当化しているあいだ、イギリス政府は1964年10月15日の総選挙により、保守党政権から労働党政権へと政権交代が行われていた。新たに首相となったウィルソン(James Harold Wilson)は、同年10月27日、スミス政権を牽制すべく、スミス政権がUDIを行った場合、イギリス政府は経済制裁をもって、これに対抗すると発表した。この経済制裁措置の発表に対して、ローデシア・タバコ協会(Rhodesia Tobacco Association)をはじめ各種民間企業団体が、経済制裁による損失を強調した調査報告を公表するにおよんで、経済制裁がUDIへの抑止力として働くように思われた。しかし、1965年の総選挙において、RPが経済制裁による損失を、有権者に訴えたにもかかわらず、大敗を喫し、UDIを実施する可能性が高いRFが、白人入植者達の圧倒的支持を獲得したことから、経済制裁では、ローデシアの時代に逆行する動きを封じ込めることが出来ないとはっきりしたのだった。

スミス政権とイギリス労働党政権の独立交渉は、1965年1月30日、スミス首相がチャーチル元英首相の葬儀参列のために訪英した際に、ウィルソン英首相と会見したことから本格的に開始された。交渉にあたり、ウィルソン首相は、ボトムリー(Arthur Bottomley)イギリス連邦(The Commonwealth of Nations)関係相と、ガーディナー(Gerald Gardiner)大法官をローデシアに派遣した。ボトムリーとガーディナーは1965年2月21日から3月3日にかけて、ローデシアを訪問、軟禁中のンコモ、タカウィラなどのアフリカ人民族主義指導者を含む、現地の様々な利益代表者の意見を聴取した。その結果、イギリス政府はローデシアの独立条件として「五原則」を提示した。

  1. すでに1961年憲法に盛り込まれていた多数支配への妨げることなき前進という原則と趣旨は支持され、かつ保証されるべきこと
  2. 1961年憲法の逆行的な修正に反対する旨を保証すべきこと
  3. アフリカ人民衆の政治的地位は、ただちに改善されるべきこと
  4. 人種差別の終焉に向かって前進すべきこと
  5. イギリス政府は、独立のために提案されたあらゆる基礎がローデシア民衆全体に受け入れられていることに満足する必要があること

であった。これらの原則は、アフリカ人民族主義者からみると生ぬるいものだったが、イギリス労働党としても精一杯の提案だった。しかし、「五原則」に基づく、ボトムリーとガーディナーによるスミス政権との交渉は、まったく進展しなかった。

こうした、ローデシアの状況を踏まえて、1965年5月6日には、国連安全保障理事会においても、南ローデシアの差別的な法と法秩序および土地分配法の撤廃を求める決議202を採択するなど、スミス政権に対する国際的な批判も強くなっていった。

その後、スミスとウィルソンは書簡を通じて独立問題について、意見交換を行い、それは、1965年10月のロンドンにおける首脳会議までつづいた。1965年10月5日から11日まで開催された首脳会談において、イギリス側がこの「五原則」に固執したのに対し、ローデシア側はほとんど妥協的な姿勢を見せなかったため、物別れになった。

首脳会談決裂後、ウィルソン首相はスミス政権のUDIが時間の問題であるとの危機感から、1965年10月25日から30日にかけて、自らローデシアを訪れ、会談を重ねた。ウィルソンは1961年憲法にもとづく独立憲法草案の起草と、調査委員会の派遣など追加的提案をしたが、妥協点を見いだせぬまま、交渉は終了したのだった。

ローデシアの一方的な独立宣言

一方的独立宣言

1965年11月11日、スミス首相は、1963年3月以来続けられていた対英独立交渉に終止符を打ち、一方的にローデシアの独立を宣言した。この「一方的独立宣言」により、ローデシアはアメリカ合衆国についで、母国に反逆した2番目の国になったのである。

スミスは、ローデシアの独立を一方的に宣言した際に、次のように語った。「ある国民がこれまで他の国民に結びつけられていた政治的紐帯を解き、当然の権利として付与されている独立そして平等の地位を他の諸国のあいだに占めることが必要となるであろうことは、これまでの人類の歴史が教えるところである」これは、ローデシア独立宣言前文で、アメリカ合衆国独立宣言の前文を模した言葉である。

スミスの予想に反して、南ローデシアの独立を承認する国家は1国も現れなかった。これは、普通選挙にもとづく多数派支配という民主主義の基本原則に反して、事実上白人にのみ統治権を認めた、人種主義的な政治体制がもはや国際的に容認されないものだったことを示している。こうして、スミス政権は、白人支配体制を堅持するため、みずから国際的孤立の道を歩み始めるのだった。

UDI以後のスミス政権の基本政策は、独立という既成事実を踏まえた上でのイギリスとの関係改善と、白人支配体制を永続的に保証するような国内的な秩序の確立だった。スミス政権がイギリスとの関係改善に積極的に取り組んだ理由は、イギリス政府との関係を改善することによって、ローデシア独立に対する承認をイギリス政府から獲得しようとしたからだった。スミス政権がイギリスとの関係改善に政策の力点をおいていたのは、UDI直後に発表された1965年憲法の内容から明らかである。1965年憲法は、1961年憲法に修正を加えたもので、その修正点は下記の3点に要約される。

  1. イギリスの主権が排除されたこと
  2. 憲法のあらゆる改正が、1961年憲法に規定されたような人種別の国民投票や、あるいはイギリス政府の承認を経ることなく議会の権限において行いうるようになったこと
  3. イギリス枢密院司法委員会への控訴権が廃止されたこと

つまり、1965年憲法は、ローデシアの独立を主張するのに必要な最小限の基本的修正を1961年憲法に加えたものだった。この1965年憲法は、ローデシアの独立を主張する点においては積極的であったが、イギリスの権限を否定する点においては消極的であったと評されていた。このように、スミス政権が、独立憲法を暫定的なものにとどめた理由には、スミス政権が、イギリス政府に対してUDIは、イギリスとの決別を意味するものではないし、さらに、スミス政権がUDIによって1961年憲法に盛り込まれた、多数支配の最終的な実現という原則と、非人種主義的社会の建設という、基本路線を放棄したわけではない、ということを示そうとしたからであった。

UDI以前の1965年8月、RF党大会においてスミスは、スミス政権のUDIを支持する国が複数存在し、ある諸国からは公式な承認の保証さえ受け取っている、としていた。しかし、実際にはUDIによって独立したローデシアを、独立国として承認する国が1国も現れず(南アフリカ、ポルトガルも未承認)、国際的に孤立状態に陥ったことによって、スミス政権の対英関係の改善という基本政策は、より一層促進された。

1965年11月11日、ウィルソン英首相は英下院における演説で「……イギリス政府は、ローデシア政府により主張された独立宣言を違法行為として非難する。……それは女王と制定された法としての憲法に対する反乱行為である。……イギリス政府は、反乱政府と何ら関係を持たないであろう」と述べた。この演説により、ウィルソン英首相は、イギリス政府がスミス政権に対して強い姿勢で臨むことを明らかにするとともに、ローデシアに対する経済制裁を実施した。しかし、イギリスの目的は、多数支配の実現を促進することではなく、できる限り早い時期にローデシアを合法政府の路線に戻す、という極めて限定的かつ消極的なものであった。

イギリス政府は、国連においてローデシア問題が、はじめて討議の対象となった1962年以来、ローデシアが国連憲章73条の非自治地域ではなく、自治植民地であるため、国連は同問題を論ずる資格を有しない、としてローデシア問題の討議に一貫して反対していたが、1965年11月11日、ローデシアのスミス政権が一方的独立宣言を強行すると、イギリス政府はその方針を180度転換し、同日、外務大臣スチュワート(Michael Stewart)を国連に派遣して、安全保障理事会の開催を要請した。それと同時に、イギリスはただちに経済制裁を実施し、イギリスにあるローデシア政府資産を凍結した。

こうした、イギリス政府の国連における率先した活動は、それ以前のイギリス政府の姿勢から考えると、国連を重視したものではなく、国連におけるローデシア問題の討議の展開に関して主導権を握ろうとする意図からだと思われる。イギリス政府の国連に対する基本的な姿勢は、イギリス政府の対ローデシア政策を国連諸国が支持することは要求するが、イギリス政府の対ローデシア政策に干渉することは許さない、というものであった。実際に、南アフリカ、モザンビークに対する経済制裁の拡大など、イギリス政府の政策方針に反するような、安全保障理事会における試みは、すべてイギリス政府の抵抗と拒否権のため実現しなかった。

ウィルソン首相がこのような方針転換を行った理由は、イギリス政府が従来どおり、ローデシア問題に関して国連を無視する姿勢をとり続けるならば、ソビエト・ブロックやアフリカ諸国と非同盟諸国の武力による反乱の鎮圧という要求にしたがって、安全保障理事会がローデシアへの国連軍派遣を決議し、それに正当化されてソビエト・ブロックが軍事介入を行う可能性があると考えたからだった。

対ローデシア経済制裁の開始

1965年11月12日、国連安全保障理事会は、イギリスの提案に即して、ローデシアのUDIを非難し、全ての国に南ローデシアの不法な少数政権を承認しないよう要請する決議216を採択する。さらに、1965年11月20日には、国連安全保障理事会は、イギリス政府へ積極的な介入を要請するとともに、全ての国に対して南ローデシアの非合法な政権との断交と、武器等の供給の停止、石油および石油製品の禁輸を含む、ローデシアとの経済関係断絶を要請する選択的任意制裁(selective optional sanctions)である決議217を採択した。

アフリカ諸国およびイギリスの強い要請もあり、多くの国が決議に従ってローデシアに対する経済措置をとったが、南アフリカとポルトガルの二国は非協力的態度を示した。南アフリカはローデシア問題を、ローデシアとイギリス間の問題とし経済制裁には参加せず、終始不介入政策を貫いた。しかし、実際には経済制裁を受けたローデシアに対し、南アフリカ経由で必要物資の輸送を行い、ローデシア経済の崩壊を阻止した。その理由は、南アフリカには、ローデシアをアフリカ人民族主義に対する緩衝地帯とする意図があったからである。

また、ポルトガルも、1960年代初めにアンゴラとモザンビークで、民族解放闘争がはじまって以来、南アフリカと親密な関係を築いており、白人による少数支配を維持したいという思惑が一致する、ローデシアへの協力はポルトガルにとっては必然的であった。この、ローデシア、南アフリカ、ポルトガルの友好関係は、「白い三角同盟」と呼ばれるようになる。

ベイラ港

南アフリカとポルトガル領モザンビークを通じてローデシアヘ石油が流入していることが、対ローデシア経済制裁の抜け穴として各国の非難と注目を集めていた。このような状況の中、1966年4月初旬、ローデシアヘの石油の主要供給地であるモザンビークのベイラ港に、イギリスの警告を無視してギリシャの石油タンカーが入港する事態が生じた。この事態を国連安全保障理事会はイギリスの要請により審議し、イギリスに対し、必要に応じて実力を行使してでもローデシア向の石油を積載する船舶のベイラ入港を阻止するよう要請する決議221を1966年4月7日に採択した。

ウィルソン英首相は、1966年1月11日と12日に、ラゴスで開かれたイギリス連邦首脳会議において、スミス政権の反乱が「数ヵ月というよりむしろ数週間以内」に解決されるであろうと言明した。この発言は、経済制裁に対する、ウィルソン英首相の期待を読み取ることが出来る。しかし、実際には南アフリカとポルトガルが抜け穴となったため、経済制裁はスミス政権にUDIを放棄させるまでの効果が得られなかった。そのため、ウィルソン英首相は、ローデシア問題の早期解決を図るべく、従来の「反乱政府とは何ら関係をもたない」という姿勢から、スミス政権との事実上の交渉を行うことに政策を変更したのだった。また、一方、スミス政権としても、独立を達成すれば、外国資本の投下が促進されるであろうと予想していたが、経済制裁のためにその目的を達成することが出来なかった。したがって、スミス首相もイギリスに経済制裁を停止させるため、対英関係の改善を積極的に推進する必要があった。

ウィルソン・スミス首脳会談とタイガー提案

英巡洋艦タイガー

ローデシア問題の解決に関する両政府の実質的な交渉は、まず事務レベルにおいて、1966年5月上旬から8月下旬までの間にロンドンとソールズベリーにて3回実施され、その後、9月のイギリス連邦首脳会議をはさんで、9月下旬から12月下旬までの間に、イギリス連邦関係相ボウデン(Herbert Bowden)がソールズベリーに赴いて2回行われた。最後に、1966年12月2日から4日にかけて、ジブラルタルの英巡洋艦「タイガー(HMS Tiger)」において、「ウィルソン・スミス首脳会談」が実現した。

イギリス政府とスミス政権との間で、最大の争点となったのは、イギリス側が主張する、合法的路線への復帰とそれに続く暫定政府の構想だった。イギリス政府の基本方針は下記の3段階に別れていた。

  1. 独立交渉が開始される以前にローデシアが合法的な路線に復帰すること
  2. ローデシアが合法的路線に復帰した後、総督は、アフリカ人代表を含む暫定政府を組織するとともに、軍と警察を直接統括し、この暫定期間中、議会は停止する
  3. 暫定政府とイギリス政府が「六原則」に即して独立憲法を起草すること

この基本方針に対して、スミス政権は、独立憲法の起草が第1であり、それが実現するまでは合法的路線への復帰は考えられず、また、イギリス政府の主張する、暫定政府を受け入れることが出来ない、という方針だった。つまり、イギリス政府とスミス政権は、合法的路線への復帰が先か、独立憲法の起草が先かで、正面から対立したのだった。この問題と平行して討議された独立憲法の内容に関しても、イギリス政府とスミス政権は対立していった。スミス政権は、イギリスが提示した、六原則(下記参照)に即して独立憲法を起草することについては、応ずる姿勢を見せながらも、イギリス政府の主張するアフリカ人議席数の増加や、憲法の改正手続きには非妥協的な態度をとり続けた。

  1. すでに1961年憲法に盛り込まれていた多数支配への妨げることなき前進という原則と趣旨は支持され、かつ保証されるべきこと
  2. 1961年憲法の逆行的な修正に反対する旨を保証すべきこと
  3. アフリカ人民衆の政治的地位は、ただちに改善されるべきこと
  4. 人種差別の終焉に向かって前進すべきこと
  5. イギリス政府は、独立のために提案されたあらゆる基礎がローデシア民衆全体に受け入れられていることに満足する必要があること
  6. 人種を問わず、少数派による多数派の、あるいは多数派による少数派の抑圧が存在しないように保証する必要があること

このように、首脳会談においても、イギリス政府とスミス政官の主張は、まったくの平行線をたどったため、両者は合意に至ることなく、イギリス政府が従来の基本方針に則した、ローデシア問題解決のための提案「タイガー提案」をスミス政権に示して会談は終了した。1966年12月5日、タイガー提案に対して、スミス政権は受諾拒否を発表し、他方イギリス政府は、「アフリカ人多数支配が行われない前にローデシアに独立を与えない(NIBMR)」という原則を表明するとともに、イギリス連邦首脳会議のコミュニケに従って、国連安全保障理事会に対して、対ローデシア選択的強制制裁を要請した。

対ローデシア全面経済制裁へ

そのイギリスからの要請に応えて、国連安全保障理事会は、1966年12月16日に、国際連合創立以来はじめて、憲章第7章の下の強制的経済制裁措置として、アスベスト、鉄鉱石、クローム、銑鉄、砂糖、煙草、銅、肉類および食肉加工品、原皮および皮革、石油および石油製品、武器・弾薬およびその製造設備、航空機、自動車およびその製造・維持のための設備・資材の輸出入を禁止した、選択的強制制裁(selective mandatory sanctions)である、決議232を採択した。

国連安全保障理事会において南アフリカを除くアフリカ諸国とソ連圏諸国は、経済制裁では効果が無いとして、幾度もイギリスに対して武力によるスミス政権の打倒を要請するが、イギリスおよび西側諸国による反対や棄権により、ローデシアに対する武力行使は見送られることとなる。

この、1966年に採択された、決議232の部分的経済制裁は失敗であったとの認識が強まっている中、1968年3月、スミス政権がイギリス女王の特赦を無視して3名のローデシアアフリカ人を処刑した。そのことに端を発して国連安全保障理事会は、ローデシア問題に関する審議を再開し、1968年5月29日、対ローデシア全面経済制裁のため、包括的強制制裁(comprehensive mandatory sanctions)、決議253を採択した。

ローデシア政府に対して、全面経済制裁が実施されたが、アフリカ諸国やソ連圏諸国の指摘した通り、経済制裁はローデシアに対してそれほどの打撃を与えなかった。なぜならば、南アフリカが経済制裁決議に従わなかったためで、石油などの必需品は南アフリカ経由でローデシアに送られたからである。同時にローデシア国内でも、外国企業に対しローデシアの国益に沿うように再投資を要求し、輸入代替政策による生産の多様化、民族資本の振興をはかった。また、葉タバコ生産の減産によるアフリカ人農業労働者の失業問題に対しては、アフリカ人を出身国であるモザンビークやマラウイに強制送還することで、それを緩和した。

また、貿易面では必需品以外の輸入を禁止し、国内生産による代替をはかった。こうして、輸入は1965年の1億970万ポンドから1966年には8970万ポンドに落ち込んだが、1968年にはふたたび1964年水準まで戻った。輸出も同時期に1億4720万ポンドから9680万ポンドへ減少したが、1971年になって一方的独立宣言前の水準に戻ったのだった。

このように1966年、1968年とローデシアに対する経済制裁が行われたが、南アフリカとポルトガルはスミス政権を支持し、経済制裁を履行しなかったため、経済制裁は十分な効果を上げていなかった。南アフリカはアパルトヘイトの友人として、ポルトガルは植民地主義の友人としてローデシアを支援したのだ。1972年7月28日に開催された国連安全保障理事会では、ローデシアと経済関係を続けている国に、経済関係を直ちに止めるよう要請する決議318が採択された。また、反共産主義で利害の一致するアメリカもローデシアからクロームを輸入しており、1972年9月27日から29日に開催された安全保障理事会では、アメリカに対して経済制裁履行のための協力を要請する決議320が採択された。

アフリカ統一機構とイギリス連邦の取り組み

国連以外でローデシア問題に取り組んだ国際組織には、アフリカ統一機構(Organisation of African Unity, 以下OAU)があった。OAUは、その決議からわかるように、ローデシア問題について積極的な姿勢を示したが、イギリスの対ローデシア政策に政治的影響を与えることが出来なかった。というのも、イギリス政府がOAUの諸決議を「非現実的なもの」あるいは「無意味なもの」として一蹴したからだった。OAUは1963年5月25日の発足以来、ローデシア問題に対して以下の方針で取り組んできた。

  1. イギリスに対してローデシアに多数支配を実現するように決議を通じて圧力をかけること
  2. アフリカ解放委員会を通じて解放勢力に物理的・心理的支援を与えること

上記の方針に従い、OAUは決議によって、イギリスへ圧力をかけ、イギリスに武力介入を含む白人政権の反乱鎮圧を実行させ、その結果として多数支配を実現する、という戦略を設定していた。そして、1965年12月3日から5日にかけてアジスアベバで開かれた、第6回特別閣僚理事会では、1965年12月15日までにイギリス政府によってローデシアの反乱が鎮圧されず、法と秩序が回復されない場合、OAU諸国はイギリスとの外交関係を断絶する、という強硬な決議が採択された。しかし、この決議はイギリス政府の対ローデシア政策に影響を及ぼすことが出来なかったばかりか、12月15日以降、決議にしたがってイギリスとの外交関係を断絶した国は、わずか9ヵ国であった。

国連とアフリカ統一機構は、イギリス政府の対ローデシア政策に直接影響を及ぼすことが出来なかったが、イギリス連邦は、一時的にではあったが、イギリス政府の政策に明白な影響力を行使していた。イギリス連邦首脳会議は1966年1月11日と12日に、ナイジェリアのラゴスにおいて、また、9月6日から15日にかけてロンドンで開催された。ラゴス会議はロンドン以外の場所で開かれた初のイギリス連邦首脳会議であり、すべてのアフリカ諸国が憤慨しているローデシア問題の処理に関する問責に答えるため、ウィルソン英首相が呼び出された、という意味の強い会議だった。しかし、最終日に発表されたコミュニケの内容は同時期の国連総会やOAUの諸決議に比べればひかえめなものであった。

しかし、9月に開かれたロンドン会議では、アフリカ諸国を中心とする新興イギリス連邦諸国から、より一層強硬な対ローデシア政策を行うように、イギリス政府に迫ったのである。これは、この時期には既に、スミス政権に対する、南アフリカやポルトガルの援助が開始されていたため、経済制裁の効果がなくなっていたからであった。新興イギリス連邦諸国は、共同歩調をとり、最終的に2点を直ちに履行するよう、イギリス政府に要求した。

  1. イギリス政府は武力を用いるか、あるいは国連安保理に対して対ローデシア包括的強制制裁を要請すること
  2. 多数支配が実現するまでは、ローデシアの独立を承認しないこと(No Independence Before Majority Rule, 以下NIBMR)

これに対して、イギリス政府は、ローデシアを合法的な路線に戻すべく行われていたスミス政権との交渉を継続すること、それが失敗した場合には年内に国連に対して石油の禁輸措置を含む強制制裁案を提出する、という立場に固執し、イギリス政府と新興イギリス連邦諸国は対立した。中立的な立場をとっていた、カナダ首相ピアソン(Lester Pearson)に最終的な調停が依頼された結果、会議は共同コミュニケの発表にたどり着くことが出来た。

コミュニケの中には、イギリス政府が白人政権との交渉に失敗した場合には、イギリス政府は年内に国連安保理に対ローデシア選択的強制制裁の実施を要請すること、さらに多数支配実現以前に、ローデシアが独立するような「解決のための提案」を、今後は行わないという方針が明記されていた。つまり、イギリス政府は、新興イギリス連邦諸国の圧力に屈して、執行猶予期間付きではあるが、NIBMRの原則を受け入れたのであった。

そして、1966年12月、ウィルソン・スミス首脳会談が決裂した結果、イギリス政府はこのコミュニケにしたがい、国連安全保障理事会に選択的強制制裁の実施を要請するとともに、NIBMRの原則をイギリス政府の対ローデシア基本方針として採用することになったのだった。

スミス政権の分離発展政策

1966年12月のウィルソン・スミス首脳会談が決裂すると、スミス政権は対英関係の改善によってイギリス政府から独立承認を得るという基本戦略を継続しながらも、国内制度を白人支配体制のイデオロギーに即して再編成すべく、新憲法の起草を開始したのであった。RFが新憲法の起草に歩み出した理由には、RFが1962年3月の結成以来、非人種主義的な性格を有する1961年憲法に対して絶えず批判的であったこと、さらに、対英関係の改善を積極的に推進したスミス政権に対して、RF党内右派勢力の不満が、1966年12月の首脳会談以後、顕在化してきたことである。また、「白人優越主義」の綱領を掲げることで、白人入植者達に支持されて政権の座についたスミス政権は、UDIを実行したからには、白人優越主義のイデオロギーに即して、国内秩序の再構成を実施する必要があったのだった。

スミス首相は新憲法の起草作業を開始するとともに、新憲法に盛り込まれるべき理念を議会において、次のように説明した。「政府の政策は、ローデシアの伝統的な方針を継続することである。……諸君はそれを分離発展(separate development)と呼ぶことができよう。……われわれは、連邦当時の政策をパートナーシップと呼ぶか、あるいは協力と呼ぶかで議論したものである。しかし、どのように呼ぼうとも、それは誤った政策であった。幸いなことにわれわれの本来の政策は、それを何と呼ぼうと正しかった。すなわち、急激な変革を行うことなく、人種的に分離されたコミュニティーが、それ自身のアイデンティティー、伝統、慣習を保つ機会をもちながら、部族信託地の人びとを含むすべてのローデシア国民の十分な経済発展を促進すること、これがわれわれの政策である」

スミス首相のいう「分離発展」政策は、RFの綱領に明記された「党は強制的な統合に反対し、人びとの平和的な共存はコミュニティーが自らのアイデンティティー、伝統、慣習を保持する権利と機会をもつ時にのみ達成されうると信じるものである」という理念を、国家の基本方針としたものだった。これは、1930年代に、ハギンス(Godfrey Huggins)首相が提唱した「2つのピラミッド(two pyramid policy)」政策への回帰だった。

スミス政権は分離発展の基本方針に即して、1967年9月には公共施設ならびに娯楽施設の使用を人種的に分離する権限を地方自治体に与えた「地方自治修正法」を、1969年10月には「土地配分法」にかわって、約25万人の白人と約500万人のアフリカ人に国土を「均等」に分けることを規定した「土地保有法」を導入したのであった。さらに、スミス政権はアフリカ人チーフ(Chief)を白人支配体制に組み込み、チーフを通じてアフリカ人民衆を把握するため、チーフの権限を強化したのだった。

ウォーレイ委員会と黄書

スミス政権による分離発展政策は、アフリカ人民衆のあいだよりも、RF党内に激しい議論を呼び起こした。RF党内では、新憲法にどの程度、分離発展政策のイデオロギーを反映させるかということが、最大の争点となったのだった。新憲法に関する調査委員会「ウォーレイ委員会」は、RF党員でローデシア放送サービス(Rhodesia Broadcasting Services)の副会長ならびに、タバコ協同組合(the Tobacco Corporation)の議長でもあるウォーレイ(William R. Whaley)を中心として結成され、1967年3月1日からその活動を開始し、1968年4月9日にその報告書を発表した。

ウォーレイ委員会の報告書は、分離発展のイデオロギーを踏まえたものであったが、その内容は「満足のいく唯一の解決策は、政治的代表の究極的な人種的均衡に実質的にもとづいたものでなければならない」というものだった。つまりは、議会における白人とアフリカ人の議席数を、最終的には同数にしようという「人種的均衡」の原則が謳われていたのだった。この、ウォーレイ報告書は、白人極右組織から「白人に対する裏切り」と激しく攻撃された。また、RFの極右党員が脱退して、1968年3月に結成したローデシア国民党(Rhodesian National Party)も、ウォーレイ報告書を「ローデシアにおける人種的統合と黒人支配を強要する」ものとして酷評した。

ウォーレイ報告書が発表されると、2つの小委員会が同報告書に関する党内の反響を調査すべく設置された。一方は法務大臣ラードナー・バークに率いられ、RF議員の見解を査定するための議員コーカス(Caucus)の小委員会で、他方は6名のRF地区議員により構成され、もっぱら一般党員の反響を調査することを目的としたものであった。2つの委員会の調査活動によって明らかになった党内の反響は、次のようなものだった。まず、RF議員も一般党員も「人種的均衡」の原則に対して強い懸念を持っていたこと、あとは、議会における代表権をアフリカ人に与えるべきではないと主張する国務大臣ハーパー(William Harper)と外務大臣グラハム(Lord Angus Graham)を中心とする党内急進派が台頭してきたことであった。そして、党内急進派は、議会を人種別に設置するところまで「分離発展」を押し進め、さらには人種別議会の上位に、アフリカ人の代表権を認めない最高議会を置くことを提案したのだった。

ウォーレイ報告書に対する党内の反響を踏まえて、1968年7月に、両委員会が勧告した憲法草案、いわゆる「黄書」はウォーレイ報告書に謳われた議会における人種的均衡を考慮しながら、党内急進派の主張も取り入れた折衷案だった。黄書は2段階を設定し、第1段階は暫定期間として少なくとも5年間続くものとされ、表面的には議会における人種的均衡が謳われていたが、実質的には白人支配が保証されていた。第2段階においては人種的均衡の原則が放棄され、それに代わって3つの人種別の州評議会がヨーロッパ人と、ローデシアの主要なエスニック集団であるショナ人とンデベレ人のために設置され、さらにそれらの上位に各州から支払われる個人所得税の総額に応じた数の代表によって構成される多人種的な国会が置かれることになっていた。しかし、この国会は多人種的といいながらも、当時のアフリカ人はわずか1議席しか獲得できないというものだった。

黄書のもう一つの特徴は、ウォーレイ報告書ではあいまいだった、共和制の問題に関して、黄書は「共和国憲法」のための草案である旨を明記していたことである。共和制への移行を求める声は、1967年初頭から、一般党員の中でも高まっていた。彼らの主張は、UDIによってイギリスとの関係を断絶した以上、イギリス女王を国家元首として仰ぐ必要はない、という党内急進派の考え方を反映したものだった。スミス首相は当初、共和制への移行に反対する姿勢を示したが、イギリスとの交渉が実を結び、ローデシアの独立が認められたとしても、白人政権を非難する新興諸国が多数を占める、イギリス連邦の枠内にとどまることは不可能であるとして、共和制への移行を政府方針として取り上げることになった。

黄書は人種別の州評議会を設置するなど、分離発展のイデオロギーを大幅にとり入れたものだったが、党内急進派の批判をかわすことができなかった。そのため、スミス首相は、黄書に対する政府内の支持を固めるべく、急進派のハーパー国務大臣を解任し、他方、党執行部からは、スミス政権への信任状を獲得することによって、黄書への支持を取り付けたのだった。スミス首相が、黄書を積極的に支持した理由は、急進派が主張するように議会におけるアフリカ人の代表権を否定してしまうと、スミス政権がアフリカ人に支持されているという、スミスの主張の正当性を著しく損なうことになるし、制憲問題と平行してスミスが取り組んでいた対英関係の改善を、より一層困難なものにするからだった。

1968年9月5日から7日にかけて開かれたRF特別党大会において、スミスは黒人であるというだけの理由で、アフリカ人を二流の市民と呼ぶことは出来ないこと、そして新憲法の採決は、感情ではなく理性によって導かれるべきことを強調したが、党内急進派を納得させることは出来なかった。党内急進派は、人種的均衡を謳う黄書に反対し、3つの人種別評議会の上位に、白人50議席、アフリカ人4議席、アジア人とカラードの各々1議席から構成される議会の設置を規定した修正案を提出した。しかし、最終的に黄書は217対206、棄権70という小差で採択された。こうして、スミスは党内急進派を辛うじて抑えた。そのため、急進派の中心人物であるグラハム外務大臣は、スミスのリーダーシップに反対して内閣を辞任した。

ウィルソン・スミス首脳会談とフィアレス提案

フィアレス艦上でのスミス・ウィルソン会談

1966年12月のウィルソン・スミス首脳会談が決裂して以来、膠着状態にあったスミス政権とイギリス政府の交渉は、1968年6月から進展をみせはじめた。交渉が進展し始めた理由は、イギリス政府が、ローデシア問題解決のための基本原則としていたNIBMRに、スミス政権が全く応じなかったため、イギリス政府がNIBMRを放棄し「六原則」に即した路線へと立ち戻ったためだった。また、このまま交渉が進展せず、スミス政権により起草されつつあった、白人支配体制を恒久化するような憲法が公布された場合、多数支配を踏まえた問題解決が、より一層困難なものになるとイギリス政府は考えたため、NIBMRを放棄してでも、ローデシアとの交渉を進展させようとしたのだった。また、スミス政権は、新憲法の起草作業を行いながらも、対英関係の改善を基本政策としていたため、イギリス政府の方向転換は歓迎すべきものであった。

1968年8月中にウィルソンの特使としてアトキン(Sir Max Aitken)とグッドマン卿(Lord Goodman)がソールズベリーに派遣され、スミス首相と秘密会談を行い、首脳会談への準備作業を開始した。さらには、同年9月にイギリス連邦関係省次官補ボトムリー(James Bottomley)が派遣された。その結果、1968年10月9日から13日にかけてジブラルタルの英巡洋艦「フィアレス(HMS Fearless)」艦上において、ウィルソン・スミス首脳会談が実現した。

この首脳会談において、ウィルソンは解決のための提案として「フィアレス提案」をスミスに示した。これは1966年の「タイガー提案」で最大の論点となった「合法的路線への復帰」が放棄されるなど、スミス政権に対する大幅な譲歩を含んでいた。しかし、スミス政権は、10月16日、フィアレス提案に盛り込まれた「憲法の改正に関してはイギリス枢密院司法委員会が審査権をもつ」という項目に関して、「ローデシア議会の主権を低下させるものである」として強く反発しフィアレス提案拒否を発表した。その後も、両政府は交渉による問題解決のため、接触をかせねるも成果はあがらなかった。

ローデシアの共和国宣言

1968年2月12日、スミス首相は「黄書」にもとづいた二段階の憲法を起草することが、技術的に困難であるとして、新たな憲法草案「白書」が起草されたことを発表した。白書は1968年6月20日、有権者の大多数を白人が占める国民投票において圧倒的支持票を集め、さらに、1968年11月17日、議会によって可決されたことにより新憲法(1969年憲法)となった。新憲法の特徴は、スミスが黄書の「第1段階と第2段階の一番好ましい部分を盛り込んだ」というように、黄書の第1段階に謳われていた議会における究極的な「人種的均衡」と、第2段階において具体化されていた「分離発展」のイデオロギーが一つにまとめていることである。

1969年憲法の「分離発展」の側面に関すると、選挙人名簿は完全にアフリカ人とヨーロッパ人(カラード、アジア人を含む)に分離され、議会(下院)もヨーロッパ人50議席と、アフリカ人16議席に分けられ、アフリカ人議席の8議席は直接選挙、残る8議席はチーフおよびヘッドマンからなる選挙委員団による間接選挙によって選出されると定められていた。また、1969年憲法においては上院が設置されたが、それは下院のヨーロッパ人議員により選出されるヨーロッパ人10議席と、マタベレランドおよびマショナランドのチーフ委員会により5人づつ選出されるチーフ10議席、そして大統領の任命による3議席から構成されるものであった。

一方、「人種的均衡」の側面については、全所得税総額に占めるアフリカ人の納税率が全体の66分の16を上回った場合には、議会におけるアフリカ人議席は2議席づつ漸進的に50議席まで増加されると明記された。しかし、すべてのアフリカ人の所得税総額は全体のわずか0.5%にすぎないため、アフリカ人が議席を増加させるためには、ヨーロッパ人の所得税総額が増大しないと仮定しても、現在の53倍の所得税を支払わなければならない、という現実を無視した規定だった。つまり、1969年憲法の本質的な性格は、1961年憲法および1965年憲法に盛り込まれた非人種主義的性格や多数支配の原則を放棄し、白人優越主義のイデオロギーを全面に押し出し、少数白人支配を制度的に保証しようとするものだった。

共和制への移行と1969年憲法に関する国民投票は、8万1000人以上のヨーロッパ人選挙人と、6645人のアフリカ人選挙人によって投票が行われた。その結果、共和制に関しては81%が賛成し、1969年憲法に関しても73%が賛成した。その後、新憲法草案はRFが65議席中50議席を占める議会において、憲法改正に必要な3分の2以上の賛成票を集めて可決され、1970年3月2日、ローデシアは共和国となったのである。

そして、1970年4月10日、1969年憲法にもとづく初の総選挙が実施された。同選挙においてRFは得票率77%を獲得し、多人種政党である中央党(Centre Party, 以下CP)と、RFよりも厳格な人種差別政策を提唱する極右政党の共和主義同盟(Republican Alliance, 以下RA)を退け、白人50議席のすべてを独占し、ローデシアにおけるスミス政権の揺るぎない支配を内外に示した。スミス政権が支持された理由としては、スミス政権が非常事態宣言により国内の反政府分子を徹底的に弾圧し、さらにはアフリカ人解放組織の武力闘争に対して南アフリカの軍事援助を得て鎮圧し、白人支配体制を擁護する法と秩序を再確立したこと、UDIによってローデシアの独立を実現するとともに、白人による支配が永続的に続く1969年憲法を起草したこと、さらには国際的な経済制裁を受けながらも、国内生産が1966年を除いて、UDI以降着実に成長し続けていたこと、があげられる。

スミス・ヒューム協定

総選挙において圧倒的な勝利を獲得したスミスは、総選挙直後の記者会見で「われわれは、解決を望んでいる。……これが次の目標である」と語った。これはスミスが、対英関係の改善により、ローデシアに対する国際的な承認を獲得し、経済制裁を解除させる、という課題に取り組むことを明らかにしたものだった。

スミスは対英関係改善について「いまやわれわれは、新たな憲法を有している。したがって独立の承認は、この憲法を踏まえてなされなければならないし、世界の国々はそれを受け入れねばならないであろう」と語った。

つまり、スミスは1969年憲法の公布という新たな段階を踏まえて、対英関係改善において、独立という既成事実を踏まえた問題の解決という条件を新たに加えたのだった。これは、スミス政権がイギリス政府との問題解決を目標としながらも、新たな条件を付け加えることによって、スミス政権の非妥協的な姿勢をはっきりと示したものだった。

ヒース英首相

一方では、1970年6月の総選挙によって、新たに政権の座についたイギリス保守党は、1968年10月に行われた、ウィルソン・スミス首脳会談が決裂してから膠着状態にあった、ローデシア問題に関して積極的に解決に取り組む姿勢を示した。新首相のヒース(Edward Heath)は1970年7月2日の議会開会演説において、保守党政権はスミス政権との交渉に際して、これまでイギリス政府が基本方針としてきた、ローデシアの独立のための「五原則」を遵法する旨を言明した。

スミス政権とイギリス政府による問題解決のための予備交渉は、1970年11月初め頃から、南アフリカのイギリス大使館を通じて開始された。その後、1971年4月から9月の間に、グッドマン卿(Lord Goodman)が4度ソールズベリーに赴き、詳細な予備交渉が行われた。こうした予備交渉を経て、1971年11月15日にイギリス外相ヒュームは、ソールズベリーを訪れ交渉は最終段階を迎えた。そして同年11月24日に両政府は「二国間の制憲論争に終止符を打つべく立案された提案に関して、合意に達した」という共同声明を発表した。この保守党政権の解決のための提案は「スミス・ヒューム協定」と呼ばれ、イギリス政府の主張する「五原則」に即したものであったが、それはイギリス政府の大幅な譲歩と、非妥協的なスミス政権の勝利を示すものだった。なぜなら、スミス・ヒューム協定に盛り込まれた憲法草案は、人種主義のイデオロギーに即して起草された1969年憲法を、イギリス政府が既成事実として認め、それに修正を加えたものであったからである。

このスミス・ヒューム協定による憲法草案は、多数支配に以降するため、有権者資格を納税額よりも、教育と収入の程度を基準としようとするものであった。この方式に従えば、21世紀には立法府において白人議席数よりアフリカ人議席数が多くなり、アフリカ人多数支配が実現されるはずであった。しかし、試算によると、アフリカ人のための教育施設が着実に増加し、ヨーロッパ人の入植移民数が増加せず、さらに白人政権がアフリカ人有権者数の増大を妨害しないといった「きわめて非現実的」仮定に経ったとしても、多数支配は2024年まで実現する可能性がなかった。このように、スミス・ヒューム協定に規定された多数支配とは、名目的なものにすぎず、さらに、同協定に盛り込まれた憲法草案は、1969年憲法を修正したものであったために、白人選挙人名簿とアフリカ人上級および下級選挙人名簿の区別に代表される人種主義、19世紀的な制限選挙であり、また、チーフ、ヘッドマンの代表に議席を与えるといった「部族主義」をそのまま受け継いだものであった。ようするに、スミス・ヒューム協定は、一人一票制にもとづく多数支配、人種的平等といった時代の潮流をまったく無視した極めて歴史逆行的なものだった。

スミス・ヒューム協定は、国際的に強い非難を浴びた。たとえば、OAUは1971年12月14日から17日にかけて開かれた防衛委員会第4回総会において、「いわゆるソールズベリーの反乱政府とイギリス保守党政権のあいだの協定は、500万人のアフリカ人を一握りの白人優越主義者に売り渡した以外の何ものでもない」というコミュニケを発表し、スミス・ヒューム協定を激しく非難した。また、国連総会においても、同年12月21日、イギリス・ローデシア両政府による問題解決を「民族自決と独立に関する奪うことのできないジンバブエの人々の権利に対する甚だしい侵害」として非難する決議を採択した。しかし、安全保障理事会においては、イギリス政府が再三にわたって拒否権を行使したため、あらゆる決議を採択することが出来なかった。

ピアース委員会

ピアース卿

スミス・ヒューム協定の詳細が発表された直後、ムゾレワ(Abel Tendekayi Muzorewa)が中心となって、「アフリカ民族評議会(African National Council, 以下ANC)」を組織し、この協定に反対した。そのため、イギリス政府は、スミス・ヒューム協定がローデシアの住民に受け入れられるかどうかを調査するため、イギリス上級裁判所のピアース卿(Lord Pearce)を長とする「ピアース委員会」を派遣した。ピアース委員会は、1972年1月11日から3月11日までの2ヵ月間、広範に調査を実施し、1972年3月24日に報告書を提出した。ピアース委員会の報告書は、スミス・ヒューム協定を、白人は支持し、アフリカ人は拒否していることを明らかにした。アフリカ人がスミス・ヒューム協定を拒否した理由としては、アフリカ人多数支配移行の期日が不明確なこと、さらにこの交渉にアフリカ人代表が加えられなかったことをあげた。また、同委員会の調査により、スミス政権が主張してきた「チーフは、アフリカ人の真の代表である」という主張が、全面的に否定された。

このピアース委員会の調査において、白人入植者達は多数支配を、決して歓迎はしないが、それが避けられないものであることを認識しており、多数支配に移行する場合には、より漸進的かつ平和的な移行を望んでいることと、また、白人入植者達は時期尚早な多数支配を望んでいないのと同様に、穏健な意見の排除や極右的な人種差別政策への移行へと導くような白人の反動(White Backlash)に対しても警戒心を持っていることが、明らかになった。

ピアース委員会の調査結果は、1972年5月23日、ヒュームによってイギリス議会で発表された。そして、調査報告書の結論部は次のように記されていた。「われわれは、その提案が大多数のヨーロッパ人に受け入れられている、ということを証拠にもとづいて認識している。同様にわれわれは、過半数のアフリカ人が提案を拒否している、ということに確信がある。したがってわれわれの意見は、ローデシアのすべての人々がその提案を独立のための基礎とみなしているわけではない、ということである」。この調査報告書を受けて、イギリス政府はスミス・ヒューム協定を撤回した。

ピアース委員会の報告に基づいてイギリス政府がスミス・ヒューム協定を撤回したことで、スミス政権は制憲問題の解決のためには、アフリカ人の合意を得る以外に方法が無いと認識することになった。さらに、ピアース委員会の報告の発表後、イギリス政府は、制憲問題に関する合意がアフリカ人と白人との間でなされるまでは介入しない、という見解を繰り返した。そのため、1962年に政権の座について以来、アフリカ人民族主義者に制憲交渉に関する発言をまったく認めなかった、RF政権が、制憲会議の招集をめざしたANCと交渉を開始したのだった。スミス政権とANCの接触は、1972年9月頃から秘密裏にはじまったと言われているが、制憲問題に関する実質的な交渉が開始されたのは、1973年半ば以降と見られている。この制憲交渉で、ANCはスミス政権に対して一人一票制を主張しないなど、妥協的な案を提出したが、スミス政権は非妥協的な態度を崩さず、交渉は断続的に行われたが、何ら具体的な成果を生むには至らなかった。最終的にANCは、1974年6月2日、スミス政権により提示された制憲協定の拒否を発表した。

こうした、ローデシア国内における制憲問題の行き詰まりをよそに、1974年4月25日に、ポルトガルで起こったクーデターの余波は、ローデシアの政治的潮流に急激な変化をもたらすことになる。

モザンビークの独立

銃口にカーネーションを挿したポルトガル兵

モザンビークでは、1962年からポルトガルに対する、独立戦争が始まっていた。最初は3派に分かれて足並みの揃わなかった独立運動も、1964年に「モザンビーク解放戦線(FRELIMO)」に統合された。FRELIMOは、約8000名のゲリラ部隊を擁し、ポルトガル軍5万との闘争を展開した。

ポルトガルと、その植民地であるモザンビーク、アンゴラ、ギニア・ビサウとの独立戦争が激化し、ポルトガルの独裁政権は全国家予算の半分を軍事費に割いていた。1974年4月25日、その状況を憂いた青年将校たちによる無血クーデター「カーネーション革命」によって、ポルトガルでは政権交代が行われる。新政権は植民地の独立を約束したため、ZANUは勢いを得ることになる。1975年6月には、モザンビークがポルトガルから正式に独立した。

FRELIMOは社会主義経済を採用するのだが、そこに目をつけたローデシア軍の「中央情報局(CIO)」が反社会主義派のモザンビークアフリカ人を扇動し「モザンビーク民族抵抗(RENAMO)」という組織を編成した。ローデシア軍は、RENAMOを用いてモザンビーク領内での破壊工作を開始した。RENAMO(中核を担ったのは旧ポルトガル政府の秘密警察PIDEの元兵士)はローデシア領内の基地から出撃しては、モザンビーク各地の村を焼き払い、学校・病院・道路に対して破壊活動を行っていた。この、RENAMOとFRELIMOの戦いは1992年8月の停戦まで続けられることとなる。

ルサカ会談

フォルスター南ア首相

1974年4月25日、ポルトガルでクーデターが起こり、その結果としてポルトガル植民地体制が崩壊し、アンゴラとモザンビークが独立した。このことにより、ローデシア、南アフリカ、ポルトガルの三者で構成されていた、経済・軍事協力体制である「白い三角同盟」が崩壊することになった。とくに、モザンビーク独立、FRELIMO政権の誕生は、スミス政権にとって大きな衝撃であった。なぜなら、モザンビークは南アフリカとならぶ、経済制裁に対する「抜け穴」であり、ローデシアの全輸出量の80%はモザンビークを経由していたからだった。

こうした南部アフリカの変動にいち早く対処したのは南アフリカで、首相のフォルスター(Balthazar Johannes Vorster)は1974年10月23日「南アフリカのデタント」を告げる演説を行い、ローデシア問題に関して「それを解決するうえで影響力をもつものすべての者は、全当事者に対して恒久的かつ名誉ある解決を見いだすべく圧力をかけるときである」と訴えた。この時点で、南アフリカ政府には、対ローデシア政策に2つの選択肢が存在していた。それは、外部からの大量の支援なしにはみずからの体制を堅持することのできないローデシアの白人政権に対して、南アフリカがよりいっそう軍事的に支援を与えるか、あるいは停戦を実現して政治的解決の道を模索するか、という選択肢だった。そして、フォルスターは国益の観点から、停戦と政治的解決の道を選択したのだった。

このフォルスターの演説を、ザンビア大統領カウンダ(Kenneth David Kaunda)は「アフリカと外部世界が待ち望んでいた理性の声」と評してこれを歓迎するとともに、1974年11月には南アフリカへ特使としてチョナ(Mark Chona)を派遣し、両者はローデシア問題の平和的解決に向けて接触を重ねた。そして、フォルスターがスミス政権の説得にあたり、「ルサカ会談」が開かれることになる。

ルサカ会談は、1974年12月4日から開催され、会談には、ザンビア大統領カウンダ、タンザニア大統領ニェレレ(Julius Kambarage Nyerere)、ボツワナ大統領カーマ(Seretse Khama)、FRELIMO議長マシェル(Samora Machel)、ANC議長ムゾレワ、FROLIZI議長チケレマ(James Robert Chikerema)、ZAPU議長ンコモ(Joshua Mqabuko Nyongolo Nkomo)、ZANU代表シトレ(Ndabaningi Sithole)、そしてスミス政権の代表が出席した。さらに、12月8日には、会談の行き詰まりを打開すべく南アフリカの代表が派遣された。ルサカ会談で討議された問題は、アフリカ人解放組織の統合問題と、ローデシア問題の平和的解決の方策で、とくにゲリラ活動の停止、ローデシアへ派遣されている南アフリカ警察軍の撤退、制憲会議の召集といった問題が討議の焦点となった。

解放組織の統合は、ザンビアやOAU解放委員会などによって試みられてきた長年の課題だったが、この会談において「ジンバブエ統一宣言」が各解放組織の代表によって調印され、各組織は名目上、ANCのもとに統合されることになった。しかし、これはANC以外の組織の解体を意味するのではなく、制憲会議に備えた共同戦線を結成した程度のものだった。

ローデシア問題の平和的解決に向けての交渉は、ルサカ会談を契機に大きな漸進が期待された。なぜならば、1974年12月11日、スミスがルサカ会談の成果として、ゲリラ活動の即刻停止、前提条件のない制憲会議の招集、拘禁中のアフリカ人指導者の釈放、を骨子とする声明を発表し、一方、フォルスターも停戦が実現すると同時に、南アフリカ警察軍を撤退させる旨を明らかにしたためである。しかし、スミス政権とANCによる実質協議に入ると、交渉は暗礁に乗り上げてしまった。その原因は、ルサカ会談における合意事項を巡る両者の対立だった。

スミス政権は1975年1月9日、ゲリラ活動の停止が実現しないため、これ以上は政治犯の釈放は行わないと発表し、ANCも1月12日、イギリス外相が議長を務める制憲会議の招集、すべての政治犯の釈放、そしてZAPU・ZANUの非合法化の解除というルサカ会談で取り決められた条件が満たされるまで、制憲会議には応じないと言明したのだった。このような事態に至った原因は、事態がフロントライン諸国や南アフリカなどの、外部勢力の主導権によって、急激に展開したため、スミス政権とANCに実質的な交渉に入るだけの準備が整っていなかったからだといわれている。

1975年3月4日、ローデシア政府はシトレを政敵暗殺計画の科で逮捕した。シトレの逮捕に驚いたムゾレワは、シトレを釈放するか公開裁判を行わない限り、スミス首相との会談には応じられないとした。3月25日、ソールズベリーの特別法廷でシトレの裁判が行われ、4月2日、シトレの拘禁が発表されたが、その二日後、スミス首相はムゾレワ、カウンダ、ニエレレ、カーマ、マシェル、フォルスターの要請にしたがって、シトレを釈放した。釈放後、シトレは「今回の暗殺計画は事実無根で、ローデシア政府によるUANC弾圧の言いがかりにすぎない」と言明した。こうした、シトレの逮捕が、ANCの態度をより一層硬化させることになったのである。

ダルエスサラーム宣言

タンザニア大統領ニェレレ

南アフリカのデタント政策に呼応した、フロントライン諸国の活動に対して、反デタント派のアフリカ諸国から批判の声が上がった。だが、1975年4月7日から10日にかけてダルエスサラームで開催された第9回OAU特別外相会議において、フロントライン諸国と反デタント派諸国との意見調整が行われ、ニェレレの起草による「ダルエスサラーム宣言」が圧倒的多数で採択された。

同宣言は、ローデシア基本戦略を「OAUは、多数派アフリカ人への権力の移行を促進するための真剣な交渉を支援する、という課題を受け入れると同時に、ジンバブエ紛争の平和的な解決が暗礁に乗り上げた場合には、ただちに武力闘争を激化させるために必要な準備を整えておかなければならない」と定義していた。

こうして、ローデシアに対する和戦両様の戦略は、OAUの基本戦略となり、南アフリカのデタント政策に応えて、ローデシア問題の平和的解決を推進しようとするフロントライン諸国の活動は、正当性を獲得したのだった。

ビクトリア・フォールズ会議とプレトリア協定

1975年8月9日、「プレトリア協定」が、ザンビア特使チョナ、フォルスター南ア大統領、スミス首相の間で調印された。プレトリア協定の骨子は下記のものだった。

  1. ローデシア政府の閣僚とANCの代表が、8月25日までにビクトリア・フォールズ橋上の列車のなかで、前提条件なしに公式会談を行なうこと
  2. そののちローデシア国内で組織される委員会において、両当事者は、制憲問題解決のための提案を討議すること
  3. さらに、合意に達した委員会提案を承認するための公式会議が、取り決められた場所において召集されること
  4. 南アフリカ共和国、ボツワナ、モザンビーク、タンザニアそしてザンビアの各政府は、この協定が両当事者によって履行されることを保証する意思を個別に表明すること

プレトリア協定は、その後、タンザニア、モザンビーク、ボツワナの各大統領によって公式に承認されたのだった。こうした手順を踏んで、1975年8月25日、ビクトリア・フォールズ鉄橋上の、南アフリカ政府の提供する列車の中で、ビクトリア・フォールズ会議が開催されることが明らかにされた。同会議には、ローデシア政府側からはスミス首相以下4名、ANC側からムゾレワ、ガベラ、ンコモ、シトレ、チケレマ以下7名が出席すると発表された。(実際にはフォルスター首相、カウンダ大統領も出席した)。この列車内会談は、1日目から暗礁にのりあげた。スミス首相は、8月26日にソールズベリーにもどり、議会に交渉経過を報告すると同時に、今後はANC以外のアフリカ組織、首長評議会の代表と交渉してゆくことを公表した。ANC側もこれ以上スミス首相と交渉するのは無意味だと主張した。

この交渉決裂の直接の原因は、プレトリア協定に盛り込まれた「ローデシア国内で組織される委員会において、両当事者は、制憲問題の解決のための提案を討議すること」という項目に関連して、ANCが亡命中の指導者が帰国した際の身柄の保証を要求したのに対して、スミスはそれがプレトリア協定の合意事項に含まれていない、として拒否したことにあった。しかし、会議決裂の根本的な原因は、ANCが主張した「多数支配への即時以降」という要求を、それがいかなる手続きをとろうとも、スミス政権には受け入れがたかったことに求められる。

このビクトリア・フォールズ会議の決裂により、ローデシア問題の平和的解決への活動は、急激に下降線を辿っていった。また、ビクトリア・フォールズ会議の決裂により、それまでは表面上統一を保っていた、ANCに大きな影響を与え、その分裂を促進することになった。ムゾレワはその後国外に支持を求めて事態を収拾しようとしたが、ンコモはそれに反対し、1975年9月11日、彼をUANCから追放した。ンコモはローデシア問題をあくまでローデシア問題をあくまでローデシア国内で解決すべきことを主張し、9月28日、いわゆるANC国内派の議長に選ばれた(この議長就任はムゾレワおよびANC国外派によって無効とされた)。ンコモはスミス首相との次回の会談が失敗すれば、その後は武力闘争が不可欠であるとした。

1975年12月1日、ンコモとスミスが制憲交渉を開始する旨を宣言し、フロントライン諸国はこれを静観した。ムゾレワとシトレは、ンコモ・スミス会談に反対し、その理由として、イギリス政府とンコモとのあいだにローデシア白人の権利保証について密約がされていたこと、また、ザンビア・タンザニア・ボツワナ・モザンビークが同提案を支持していないこと、をあげた。ンコモ・スミス会談の予備会談は、12月11日から行われたが、交渉は翌年ふたたび決裂した。これはンコモが、ローデシア政府はただちに会議を廃止し、イギリス政府の任命する議長のもとでローデシア政府・ANC同数の議員によって構成される評議会を設立すべきこと、最初の総選挙後、議会でアフリカ人が多数を占めるよう議会の構成と有権者資格を改正すべきこと、を要求したのに対して、スミス首相が反対したためであった。この決裂によってスミス首相は、2月20日、イギリス政府に局面打開の要請を行った。イギリス政府は、アフリカ人多数支配確立の選挙までに18ヵ月ないし 2年を要するということを前提として、アフリカ人多数支配を実現すること、アフリカ人多数支配実現の前に独立はありえないこと、交渉はできるだけ早く行うこと、を交渉再介入の条件とした。 結局、ンコモ・スミス会談は、なんら具体的な成果を生まず、1976年3月19日に決裂してしまった。この交渉において、スミス政権は多数支配という原則自体はスミス・ヒューム協定の場合と同様に受け入れたが、多数支配の即時実現に関しては、まったく非妥協的な姿勢を崩さなかったのだった。

モザンビークの国境封鎖

モザンビークがポルトガルから独立する以前である1974年6月には、ローデシアの輸出入量の約75%が、モザンビークのベイラとロレンソマルケス(現マプト)の両港を通過したものだった。ところが、モザンビークの独立とともに、ベイラとロレンソマルケスの使用は困難となり、両港におけるローデシアの輸出入の通過量は30%に落ち込んでいた。

ついに、1976年3月、モザンビークは国連の対ローデシア経済制裁措置に協力して、ローデシアとの国境を閉鎖した。この措置は、ローデシア経済に大きな打撃を与えるとともに、モザンビーク経済にも甚大な影響を与えた。なぜなら、モザンビークの外貨収入源の大きな柱であった、ベイラとロレンソマルケスを経由するローデシアの貨物取扱い収入が、ローデシア国境封鎖により、なくなったからだった。それによる、モザンビークの経済損失は、国連によると年間1億2000万ドルと推計された。

ローデシアがベイラとロレンソマルケスを使用する理由は、両港が密貿易の拠点となっていたからだった。両港では、ローデシア産の鉱石など輸出品に、南アフリカの原産地証明書の添付が可能だった。つまり、ローデシア産の鉱石を南アフリカ産だと偽装することが可能だったのだ。また、石油を産出しないローデシアへ、毎年50〜60万トンの石油を輸送する基地となったのも、ロレンソマルケスだった。

モザンビークのベイラとロレンソマルケスの両港が使用できないのであれば、南アフリカ経由で鉱石を輸出すれば良さそうだが、南アフリカの鉄道および港湾の能力では、ローデシアの輸出量の全てを代替することは難しかった。

まず、ベイラに代わりうる港は、南アフリカには存在しなかった。ダーバン、ケープタウン、イーストロンドンには鉱石船積用の設備が存在せず、ポートエリザベスは設備を整えることは可能だったが、時間がかかり過ぎるとみられた。また仮に、鉱石船積用の設備を整えることが出来て、代替港にポートエリザベスを選んだとしても、ローデシア産の鉱石は、海上への最短距離が閉ざされたことによる、輸送コストの増大により、価格競争力の上で非常に不利な状況に追い込まれることになるのだった。

こうして、ローデシアの経済制裁に対する抜け道は、南アフリカへのルートだけどなり、全面的な南アフリカの道路・鉄道・港湾への依存が始まった。ソールズベリーからケープタウンまでは2,500kmの距離があり、ローデシアと南アフリカを直接繋ぐ鉄道路線は、モザンビーク独立にそなえて1974年10月に開通した、ルテンゲ・ベイトブリッジ線で、この路線がローデシアの大動脈となった。

モザンビークの国境封鎖後、ローデシアの輸出入運輸量は、南アフリカ全体の20%にも昇り、ローデシアの輸出入運輸を全て南アフリカに切り替えた場合、南アフリカはさらに積荷扱い高を15%上げる必要があった。ローデシアの南アフリカへの経済依存は、UDI以来の傾向だったが、モザンビークの国境封鎖はこれを決定的なものとした。そのため、ローデシアの南アフリカに対する政治的な自立性は失われ、キッシンジャー提案を受け入れる背景となった。

キッシンジャー提案

ヘンリー・キッシンジャー

アンゴラ内戦へのソビエト・キューバの軍事介入は、ローデシア問題へのソビエト・キューバの軍事介入を予感させた。そのため、スミス・ヒューム協定以来、ローデシア問題から遠ざかっていたイギリス政府を討議の場に連れ戻し、アメリカまでもローデシア問題の平和的解決へ積極的に介入させることになった。1976年4月27日、キッシンジャー(Henry Kissinger)米国務長官はルサカにおいて、南部アフリカの自決権と多数支配への支持を表明するとともに、10項目におよぶ対ローデシア基本方針を明らかにした。その要点は下記の通りであった。

  1. 1976年3月にイギリス外相キャラハン(James Callaghan)が発表した、2年以内の多数支配への移行を骨子とする「解決のための提案」を強く支援すること
  2. スミス政権を外交的にも物理的にも支援しないこと
  3. ローデシアに対する経済制裁を完全に履行すること
  4. 多数支配の実現に向けてスミス政権と直接会談を行なうこと
  5. 対ローデシア国境の閉鎖によって、経済的苦境に陥ったモザンビークを援助するために1250万ドルを提供すること
  6. 多数支配が実現した場合にも少数白人入植者の権利は保護されるべきであり、このために援助計画を行う用意があること

こうしたアメリカの対ローデシア基本方針の発表は、スミス政権に衝撃を与えた。なぜなら、1970年以降、アメリカは国連の経済制裁を公然と無視して、ローデシアからのクローム鉱の輸入を合法的に認めた1971年11月の「バード修正法(Byrd Amendment)」に象徴されるように、スミス政権にとって好意的とも映る言動を展開していたからだった。1969年、アメリカ大統領ニクソンは、就任と同時に外交全般にわたる再検討を命じ、その中には対南部アフリカ政策も含まれていた。その結果、南部アフリカ地域に対する政策上の4つの選択肢が盛り込まれた「国家安全保障に関する調査覚え書き 第39号(以下NSSM39)」が提出された。1970年1月、当時、国家安全保障担当補佐官だったキッシンジャーは、そのなかの第2選択肢だった少数白人支配地域に対するアメリカの諸措置の部分的緩和という政策をニクソンに勧告し、ニクソンはこれを受けたのだった。この第2選択肢のローデシアに関する部分は、「イギリスおよび国連の活動を阻害することなく、スミス政権に対して柔軟な姿勢を取るべきこと」を勧告し、その政策例として、領事館の存続、制裁の緩和、ローデシアに対する承認の考慮、などがあげられていた。

アメリカがNSSM39に従って、対南部アフリカ政策を展開したか確かめる術はないが、1970年代前半のアメリカ政府の言動は、次の2点からみて、スミス政権に対して愛護的であったと言える。まず、ローデシアの共和国宣言にともなうアメリカ領事館の閉鎖問題に関して、ホワイトハウスはその決定を引き延ばし、これを直ちに閉鎖しない場合にはアメリカ大使に対する信任状の撤回を考慮する、という最後通告をイギリス政府が突きつけたことによって、ようやく領事館を閉鎖したことと、議会におけるバード修正法の成立に際して、ホワイトハウスはそれを阻止するためになんら手段を講ぜず無関心を装ったこと、である。また、アンゴラ内戦以後、「アメリカは、共産主義者によるアフリカへの介入をこれ以上容認しないであろう」といったアメリカ政府の声明もあり、スミスは、共産主義勢力から支援を受けるアフリカ人解放勢力と戦うローデシアを、アメリカが支援すると考えていたのだった。

しかし、アメリカに対するスミスの期待は、キッシンジャーによって発表された対ローデシア基本方針に直面して崩れ去ってしまう。アメリカはスミス政権に「2年以内の多数支配の実現」を受諾させ、ローデシア問題を平和的に解決することによって、次第に激化しつつあったアフリカ人解放勢力と白人政府軍の武力衝突を集結へと導き、アンゴラ内戦のようにソビエト・キューバが直接介入を行うような条件を取り去り、あわせて南部アフリカに対するソビエト勢力の拡大を阻止しようとしたのだった。

キッシンジャーは、イギリス、ザンビア、タンザニアの各国首脳と意見を交換する一方で、南アフリカ政府との接触を図り、1976年6月23日と24日に西ドイツにおいて、9月4日から6日にかけてスイスにおいて、フォルスターと会談した。一方、スミスは、1976年8月4日、こうしたキッシンジャーの活動を「わが国の状況を無視したもの」として批判しながらも、キッシンジャーとの直接交渉を訴える演説を行い、それを実現すべく労をとるようフォルスターに要請した。

1976年9月14日から21日にかけてキッシンジャーは、ダルエスサラーム→ルサカ→ダルエスサラームという行程で、「南部アフリカ往復外交」を行い、9月17日から20日までプレトリアに滞在してフォルスターおよびスミスと会談した。その結果、スミスは9月24日、5項目の制憲提案とローデシア経済の将来のために国際的な信託基金が設置されることを定めた経済援助に関する項目からなる「キッシンジャー提案」を一括協定として受諾することを発表したのだった。

  1. ローデシアは2年以内の多数支配に同意すること
  2. ローデシア政府代表とアフリカ人指導者は、暫定政府を組織すべく直ちに会合すること
  3. 暫定政府は、投票権をもたない白人が議長を務め、同数の白人と黒人から成る国家評議会、およびアフリカ人が過半数を占め、アフリカ人が首相となる閣僚評議会によって構成されること。なお、暫定期間中、国防相と治安担当相は白人とされ、閣僚評議会の決定は3分の2の多数決によること
  4. イギリスとローデシアは、この多数支配への手続きに法的権限を与える立法をそれぞれ制定すること
  5. 暫定政府の樹立と同時に制裁は解除され、停戦が実現すること

スミス首相は提案の受諾を発表した際に「この提案は、われわれが考えているローデシア問題に関する最善の解決策である、と述べるならば、私は不誠実であろう。われわれはこの提案をある程度修正することはできたが、遺憾ながらわれわれの見解を受け入れさせることができなかったのである」と語った。スミスはキッシンジャー提案に、国防相と治安担当相への白人の任命、ゲリラ活動の停止や経済制裁の解除など、白人政権に有利な点を織り込むことが出来たが、「2年以上の多数支配」という原則を受け入れたことは、UDI以来、少数白人支配体制を堅持してきたスミス政権にとって、政策上の大転換を示すものだった。多数支配の原則を受け入れたことについてスミスは、「ローデシアにおいて現在の状況が続くかぎり、自由世界からのいかなる援助や支持も期待できないということが、…・・・きわめて明白なものとなった。むしろ、われわれに対する自由世界の圧力は、増大するであろう」と語った。つまり、外部からの支援がまったく期待できないことが明らかになったスミス政権にとって、キッシンジャー提案を受諾する以外に、残された選択肢は存在しなかったのだ。

ローデシア問題はスミスがキッシンジャー提案を受諾したことで、大きく進展するように思われたが、1976年9月26日に発表されたフロントライン諸国の声明によって再び暗礁に乗り上げた。フロントライン諸国は「2年以内の多数支配」という原則をスミス政権が受諾したことに関しては評価したが、暫定政府の構成や停戦の実施に関する諸項目についてはこれに異議を唱え、こうした問題を改めて討議するための会議の召集をイギリス政府に要請したのだった。

キッシンジャーは、南部アフリカ往復外交を行い、ニェレレやカウンダなどと討議を重ねたにもかかわらず、フロントライン諸国がこの提案に異議を唱えたのは、ニェレレによるとキッシンジャーが暫定政府に関する諸項目をフロントライン諸国やアフリカ人解放勢力との協議なしにスミス政権に提案したためであった。フロントライン諸国はスミス政権に「2年以内の多数支配」という原則を受諾させるところまでをキッシンジャーに期待し、暫定政府の構成や制憲会議の召集手続き、そして停戦実現への諸措置といった問題は、イギリス政府代表を議長とする会議において討議されるべきである、と考えていたのである。これに対して、スミス政権は、「2年以内の多数支配」という原則を受け入れる条件として、白人入植者達の既得権を保護するような項目を出来る限り盛り込む形で提案を精緻化し、そうしたのちに各項目に関して変更のきかない、一括協定とすることを画策したのだった。

ジュネーヴ会議

1976年10月28日、ジュネーヴにおいて暫定政府樹立のための会議、いわゆる「ジュネーヴ会議」が開催された。イギリス国連代表リチャード(Ivor Richard)を議長として、愛国戦線(Patriotic Front, 以下PF)、ANC、ZANUシトレ派の各解放組織の代表と、スミス政権の代表が出席した。会議は解放勢力とスミス政権の意見がかけ離れていたため休会を繰り返し、討議は進展しなかった。解放勢力側は、暫定政府の構成に関してはキッシンジャー提案を前提としない、という姿勢を崩さず、一方のスミス政権側は同提案が一括協定であるために、暫定政府はそれに即して構成されるべきである、という主張を繰り返したのであった。そのため、討議は行き詰まり、会議は12月14日に、1977年1月17日まで休会することとなった。これは、ジュネーヴ会議の事実上の閉幕を意味した。

キッシンジャーの南部アフリカ外交は、結果的に問題の解決には至らなかったが、ジュネーヴ会議に至る過程で、スミス政権が2年以内の多数支配への移行、という原則を受け入れたことは、スミス政権が従来までの少数白人支配体制の堅持という政策にかわって、多数支配という枠組みのなかで、いかにして白人入植者達の既得権を保持しうるかに、政策の目標を変更したことを意味していた。

また、1976年10月9日には、ZAPU議長ンコモとZANU議長ムガベ(Robert Gabriel Mugabe)によって、PFが結成されたことは、その後のローデシア問題に大きな影響を与えることになった。なぜならば、ZAPUとZANUが結成されたことにより、解放組織内の対立という阻害要因が取り除かれたため、ZAPUとZANUは武力による白人政権の打倒を目指して、ゲリラ活動を激化させたのだった。

英米共同提案

ヤング米国連大使

ジュネーヴ会議が決裂した後も、アメリカとイギリスはローデシア問題の平和的解決をめざし、スミス政権とPFのあいだで積極的に調停活動を行っていた。1977年1月20日に、新たに米大統領に就任したカーター(James Earl "Jimmy" Carter, Jr.)は、同政権の対南部アフリカ政策の第一歩として、ヤング(Andrew Young)国連大使を2月初めからアフリカに派遣した。タンザニアに到着した同大使は、ニエレレ大統領をはじめザンビア・ルワンダ・ブルンジ各国の大統領とも会談し、ローデシア問題について事情聴取を行い、アフリカ人多数支配への移行を支援する態度を明らかにした。

こうした、アメリカやイギリスの調停活動をよそに、スミス政権とPFは、それぞれ独自にローデシア問題解決への行動を模索しはじめたのだった。スミス首相は、1977年2月9日、ケープタウンでフォルスター首相と会談し、武力闘争を行わない国内の解放勢力およびチーフの代表を相手に問題解決をはかる「国内解決」の方向を明らかにした。その一方、1977年4月に、オーエン(David Owen)英外相が、タンザニア・モザンビーク・南アフリカ・ローデシア・アンゴラを歴訪し、1978年のローデシア、アフリカ人多数支配への移行について打診し、歴訪の最終日には、ルアンダで開かれたフロントライン諸国の会議に出席した。その成果にもとづき、5月、同外相はイギリス議会で「ローデシア問題の平和的解決のために、近く英米合同外交団を現地に派遣する」と発表した。

オーエン英外相

オーエン(David Owen)英外相の発言を受けて結成された米英合同チーム(グラハム英外務次官、ロウ米駐ザンビア大使)が1977年5月28日に、ソールズベリーに到着し、ローデシアの各民族解放勢力指導者と面会し、アフリカ人多数支配への移行のための憲法制定について協議したが、その時期は1977年末か1978年初めに延期された。

また、ロンドンで1977年6月に開催された第21回イギリス連邦首脳会議および、ガボンの首都リーブルビルで開催された第29回OAU閣僚会議では、ローデシア問題が重要な議題の一つとなり、解放闘争への全面的支援が決議された。

ついで、ローデシアおよびナミビア人民を支援するための国際会議が、1977年5月16日から21日、モザンビークの首都マプートで開かれ、国連加盟87ヵ国の代表がこれに出席した。その際、マシェル大統領が基調演説を行ったが、彼は、ローデシア問題に対するイギリスのこれまでの行動を高く評価し、この会議の目的を、白人支配国に対する経済・通商関係の破棄、フロントライン諸国による南部アフリカの解放闘争支援のための国際社会の協力、においた。そして、会議最終日に「マプート宣言」と「行動計画」が採択されたのである。また、フロントライン諸国の全面的な支援を獲得し、さらに1977年7月にリーブルビルで開催されたOAU第14回定例首脳会議において、ローデシアを代表する唯一の組織として承認されたPFは、武力による解放を訴えて、ゲリラ活動を展開したのだった。

スミス政権はPFの活動に対して、モザンビークへの越境攻撃などで応えながら、内部解決に向けて国内的な支持を固めるべく1977年8月31日、1年繰り上げて総選挙を行った。この選挙においてRFは、過去3回の総選挙同様、白人50議席のすべてを独占したばかりか、これまででもっとも高い85%という得票率(前回1974年7月の総選挙では77%)を記録したのだった。

1977年7月にはいると、イギリス議会ではローデシア問題の行き詰まりに対する不満が高まり「オーエン・プラン」は事実上挫折した。そこで、オーエン英外相は新たな解決策を求めてアメリカに飛び、サイラス・バンス(Cyrus Roberts Vance)米国務長官と話し合い、さらにそれをもとにして、ボータ南ア外相と協議した結果、「英米共同提案」を作成した。そして、ローデシアの総選挙が終了した、1977年9月1日、イギリス外相オーエン(David Owen)とアメリカ国連代表ヤング(Andrew Young)は、ローデシア問題解決のための「英米共同提案」をスミスに示した。この提案の特徴は以下の6点に要約される。

  1. スミス政権の政権放棄
  2. 1978年12月を期限とした独立
  3. 一人一票制にもとづく総選挙の実施
  4. 多数支配への移行期間における、イギリス政府による暫定政府の樹立と総選挙の監視
  5. 暫定期間中の平和維持のための国連軍の導入
  6. 経済開発基金の設置

この新提案をもって、オーエン英外相はヤング米国連大使とともに、8月下旬、フロントライン諸国・南アフリカを歴訪して根回しをした。フロントライン諸国は、これをうけて、ルサカに集まり協議したが、この新提案が多くの不満な点を含みながらも「将来の交渉の基礎となるもの」として、これを支持する旨を明らかにしたが、スミス政権とPFは双方とも、暫定政府におけるイギリス政府の積極的な役割と国連軍の導入を不満として異議を唱えた。ただ、穏健派のムゾレワ、シトレは新提案の一人一票制を高く評価してこれに賛成した。

内部解決とソールズベリー協定

「内部解決」とは、武力闘争を行わないローデシア国内の解放組織やチーフの代表を相手に、ローデシア問題の解決をはかろうとするもので、国内に在住するアフリカ人指導者との提携によって、キッシンジャー提案を一方的に履行して国際的な承認を獲得し、あわせてPFのゲリラ活動を鎮圧するために外部からの支援を仰ぐことを意図したものだった。

英米共同提案を拒否したスミス首相は、1977年9月早々、国内解決を目指してアフリカ人穏健派グループとの交渉に乗り出し、さらには南アフリカに飛んでフォルスター首相と会談した。マプートに集まったフロントライン諸国首脳は、1977年9月23日、新提案を再度検討し、同提案を将来の交渉のベースとして支持することを表明した。また、カウンダ大統領はルサカでスミス首相と会談したが、これは物別れに終わった。

ローデシア問題に関する国連安全保障理事会が、1977年9月28日開かれ、オーエン英外相は国連特別代表をローデシアに派遣して、イギリスの駐ローデシア弁務官カーバー卿(Lord Carver)と協力させるよう要請し、それにもとづいてインドのプレム・チャンド(Prem Chand)将軍が選出された。11月初め、カーバー・チャンド使節団はソールズベリーで再度英米新提案についてスミス首相と討議し、さらにダルエスサラームで愛国戦線の指導者と話し合ったが、問題解決へのめどはたたなかった。

シトレANC議長

内部解決が具体的に動き出したのは、1977年11月に入ってからで、それ以後、スミス政権は、「アフリカ民族評議会シトレ派(African National Council Sithole, 以下ANC-S)」のN・シトレ、「統一アフリカ民族評議会(United African National Council, 以下UANC)」のムゾレワ、チーフによって構成される「ジンバブエ統一人民機構(Zimbabwe United People's Organization, 以下ZUPO)」のチラウ(Jeremiah Chirau)」等とともに内部解決の交渉を行った。

N・シトレと、当初は内部解決に反対していたムゾレワを、内部解決の交渉に参加させた要因としては、OAUとフロントライン諸国が、PFをローデシアを代表する唯一の解放組織として承認したため、N・シトレとムゾレワは孤立してしまい、この交渉に参加する以外には、民族主義者としての主体性を主張することが出来ないような状況にあったためだった。また、スミスにとって、ムゾレワの参加は内部解決を正当化するための必須条件だった。なぜなら、ムゾレワは1972年、ANC議長としてアフリカ人民衆をスミス・ヒューム協定拒否行動に動員した実績があり、また、1976年12月の帰国以後も、公称10万人のアフリカ人を集会に動員できる支持基盤をアフリカ人民衆の中にもっていたからだった。また、ムゾレワは資本主義と社会主義の長所を取り入れた「ジンバブエ社会主義」という穏健な思想の持ち主であったことも、スミスがムゾレワを内部解決の交渉相手として選んだ理由だった。

スミス政権にとって、この内部解決の交渉における最大の課題は、多数支配への即時移行を前提として、いかにして白人入植者の既得権を保持するか、というものだった。そして、1978年3月3日に、暫定政府の構成と新憲法に関する協定である「ソールズベリー協定」に調印が行われた。その内容は次の通りである。

  1. 一人一票制にもとづく多数支配を規定した憲法が起草されること
  2. 100議席からなる下院が開設され、うち72議席はアフリカ人に、28議席は白人に指定され、白人議席は10年あるいは下院の任期で2期のいずれかのより長期にわたる期間、変更されないこと
  3. 以上の規定は新憲法に盛り込まれ、その改正には78の賛成票が必要とされること
  4. 暫定政府は、スミス、ムゾレワ、N・シトレ、チラウの4者によって構成される執行評議会、および同数の白人とアフリカ人からなる閣僚評議会によって構成されること
  5. 1978年12月31日を独立の期日とすること

以上のような協定を踏まえて起草された憲法が「ジンバブエ・ローデシア憲法」であり、これはスミスの思惑を実現したものといえる。なぜなら、ジンバブエ・ローデシア憲法では、白人に対する優遇措置として、白人指定議席以外にも、首相の組閣に関する権限に制限が加えられており、また国家機関における人事権は白人が掌握する制度になっていた。このように、ジンバブエ・ローデシア憲法では、白人の拒否権、国家機関における白人優位体制の温存などに示されるように、白人入植者の既得権を大幅に認めたものであり、多数支配が実現しても、白人の意向を無視出来ないように配慮されたものであった。

この意味において、内部解決は一人一票制にもとづく多数支配への即時移行を認めながらも、スミスにとっては大きな成果だった。しかし、PFとフロントライン諸国は、当然だが内部解決を認めず、さらに国連安全保障理事会も1978年3月14日、内部解決を非難する決議423を採択したため、内部解決派の大きな目標であった国際的な承認、経済制裁の解除、ゲリラ活動の停止は実現しなかった。

ムゾレワ政権によるジンバブエ・ローデシア

ムゾレワ首相

こうした国際社会の動きをよそに、内部解決派は既成事実を積み上げていった。すなわち、1978年4月12日には閣僚評議会の人事が発表され、暫定政府が活動を開始し、1978年12月の独立は実現しなかったが、1979年1月2日には、ジンバブエ・ローデシア憲法が発表され、1月31日、大多数が白人選挙人が占める国民投票によって承認されたのだった。

そして、1979年4月17日から5日間、ローデシア初の一人一票制にもとづく総選挙(投票率64.5%)が実施され、その結果、ムゾレワ率いるUANCが得票率67%、51議席を獲得して第一党となり、1979年6月1日、「ジンバブエ・ローデシア」という新たな国名のもとに、ムゾレワを首班とする初の黒人政権が誕生したのだった。

内部解決派がイギリス政府の提案する、全当事者会議への度重なる参加要請に応ぜず、OAUが唯一の代表として承認したPFを除外して協定を締結したことは、著しく協定の正当性を損なうものだった。しかし、内部解決は、少数白人政権の終焉をもたらし、白人至上主義のRFを政権の座から降ろしたことは、評価に値する事実であった。

なぜなら、この後に述べる、ローデシア問題解決のための全当事者会議である「ランカスター・ハウス会議」が、当初の予定に反して成功を収めることができたのは、RFが政権についていないためであった。

ルサカ協定

サッチャー英首相

1979年5月3日のイギリス総選挙により、鉄の女(the Iron Lady)と呼ばれた、マーガレット・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)が首相に就任する。サッチャー英首相は、14年間続いたローデシアの反乱を終結させるべく、あらためて調停に乗り出す。1979年5月7日、サッチャー首相は、ムゾレワ政権の承認と経済制裁の解除を強く示唆し、さらに、5月中旬、ムゾレワとの会談のために政府特使としてダフ卿(Sir Anthony Duff)を派遣するなど、ムゾレワ政権に対して好意的だった。非妥協的なスミス政権にかわって、白人入植者との協調を全面に押し出した、ムゾレワ政権が誕生したことは、サッチャー政権にとってローデシア問題を解決する好機だったのだ。

サッチャー政権は、1979年4月に実施されたローデシアの総選挙を正統なものであったとするボイド卿(Lord Boyd)の調査報告書を採用し、ムゾレワ政権は「五原則」にそったものであるとして、ローデシアの独立を承認する基本条件がすべて満たされたと考えた。このような論理にもとづいて、イギリス政府はローデシア問題解決の第2段階として、外務兼イギリス連邦関係省次官デイ(Derek Day)をソールズベリーに常駐させてムゾレワ政権との密接な接触を維持する一方、5月27日、ローデシアを合法的な路線へ復帰させるための方策を検討すべく、アフリカ諸国へ政府特使ハーレック卿(Lord Harlech)を派遣することを発表した。ハーレックは、フロントライン諸国(タンザニア、ザンビア、モザンビーク、アンゴラ、ボツワナ)およびマラウイ、ナイジェリアを訪問して政府首脳と会談を行った。また、アフリカ諸国の要請により、ルサカとマプトにおいてPFの代表とも会見した。

こうした一連の会談の結果として、ハーレックは、アフリカ諸国が穏健派に至るまで、「ジンバブエ・ローデシア憲法」に対して強い敵意を示していることを報告した。そして、1979年7月17日から21日まで、モンロピアで開かれた第16回OAU定例首脳会議において、アフリカ諸国が、イギリスとアメリカに対して、ムゾレワ政権の承認は、全アフリカ諸国に対する敵対行為とみなされるであろうという警告を発した。また、アメリカ政府は、1979年4月の総選挙の正当性に関して否定的な見解を表明した。

こうしたアフリカ諸国やアメリカ政府の反応を受けて、1979年7月10日、英外相キャリントン(Lord Carrington)は上院での演説のなかでムゾレワ政権の誕生を評価しつつ、イギリス連邦諸国首脳会議が終了するまでは最終的な政策を決定することは出来ない、と語った。また、7月25日にはサッチャー首相も内部解決を大きな前進であると評価したが、1979年4月の総選挙が「五原則」のなかの「問題解決のための基礎は、民衆全体に受け入れられねばならない」という第5原則を遵守するものであるかどうかはいまだ決定されていない、と明言したのだった。こうしたサッチャー首相の言葉は、一方的なサッチャー政権の政策が、ムゾレワ政権に批判的な国際世論に直面して、再考を余儀なくされたことを示すものだった。そして、サッチャー首相はイギリス連邦諸国首脳会議における討議ののちに、イギリス政府が制憲問題に関する確固たる提案を行うことを予告したのだった。

1979年8月1日から7日まで、ルサカにおいて開かれた第22回イギリス連邦諸国首脳会議においては、予想されていたようにローデシア問題が主要な議題となった。ローデシア問題の討議は、8月3日、ニェレレが「ジンバブエ・ローデシア憲法」を非難する演説を行い、さらに、全当事者の合意に基づく民主的な憲法の制定、国際的に監視される自由かつ公平な選挙、イギリス連邦による再入植計画と白人入植者のための救済基金の設置などからなる提案を提示したことによって開始された。これに応えてサッチャーは、「ジンバブエ・ローデシア憲法」に対する国際的な批判を諒解するとともに、アフリカ人多数支配への全面的なコミットメントなどを内容とする、イギリス政府の対ローデシア基本方針を発表した。この後、ローデシア問題は、サッチャー、ニェレレ、カウンダ、オーストラリア首相フレーザー(Malcom Fraser)、ナイジェリア外務委員アデフォペ(Hery Adefope)、ジャマイカ首相マンレー(Michael Manley)の間で討議が続けられ、その結果8月6日、イギリス政府は2週間以内に新たな制憲提案を発表することを明らかにし、さらに9項目からなるローデシア問題解決のための協定、「ルサカ協定」が起草されイギリス連邦首脳のあいだで正式に採択されたのだった。ルサカ協定の内容は以下のようなものだった。

  1. 内部解決憲法は、重要な側面において欠点を有するものであること
  2. 恒久的な解決は、全当事者によって模索されねばならないこと
  3. 多数支配にもとづく独立は、少数派に対する適切な保護規定を含む民主的な憲法の採用を必要とすること
  4. イギリス政府およびイギリス連邦諸国のオブザーバーによる監視のもとで、自由かつ公平な総選挙が実施されること
  5. 全当事者が出席する制憲会議の召集、というイギリス政府の意向を歓迎すること

ルサカ協定は、イギリスとアフリカ諸国双方の譲歩を示すものだった。なぜなら、イギリス政府はジンバブエ・ローデシア憲法の欠陥を認めるとともに、全当事者が出席する制憲会議の召集に合意し、一方、アフリカ諸国は白人入植者に対する保護規定が盛り込まれた新憲法の起草を諒解したからである。会議の終了に際して、ニェレレとサッチャーは、ルサカ協定がローデシア問題の平和的解決のための最後の機会であると語った。

1979年6月にはキューバとモザンビークが、ZAPUおよびZANUに対して直接的な軍事支援を申し入れたが、事態の泥沼化を避けるため、双方ともこれを辞退している。

ランカスター・ハウス会議

1979年8月14日、イギリス政府は、イギリス連邦首脳会議における公約に則して、9月10日からロンドンにおいてキャリントンを議長とする、制憲会議を開催することを明らかにした。同時にキャリントンは11項目から成る制憲提案を発表し、PFとムゾレワ政権に会議への参加を呼びかけた。この制憲提案の最大の特徴は「ルサカ協定」に盛り込まれた、白人入植者に対する保護規定を、下院に白人指定議席を設置することによって具体化したことであった。こうしたイギリス政府の呼びかけに応えて、ムゾレワ政権は9月11日に制憲会議への参加を発表した。ムゾレワ政権が制憲会議への参加に踏み切った理由には、ローデシアの国際的承認と経済制裁の解除が、イギリス連邦諸国首脳会議の諸決議によって、挫折したためだった。

一方、PFは8月20日、イギリス政府の発表した制憲提案を受け入れることはできないが、これまでも交渉による問題解決という原則を承認してきた、と述べて制憲会議への参加を表明するとともに、現在ローデシアの大半の地域に解放区が設置され、国土の90%のPFの作戦地域となっていると発表した。PFとムゾレワ政権が制憲会議への参加を受諾したことにより、ローデシア問題解決のための制憲会議である「ランカスター・ハウス会議」は1979年9月10日に予定通り開催された。同会議においては、制憲問題、独立までの暫定期間の問題、停戦問題の順で討議が行われた。

制憲問題に関する討議

制憲問題に関する討議は、1979年9月14日、イギリス政府が先の制憲提案にもとづいて作成した、憲法草案を提示したことによって開始された。この草案は以下のような特徴を持っていた。

  1. 大統領を元首とする議院内閣制を統治形態とすること
  2. 下院には一定期間、白人指定議席が設置されること
  3. 首相の勧告にもとづいて行動する大統領に対して、国家諸機関を統轄する委員会のメンバーの任命権、および必要な場合には同委員会の活動に関して全般的な指導を行う権限を付与すること

ムゾレワ政権は9月21日、イギリス提案の全般的な原則に同意すると回答したが、PFはアメリカ型大統領制を統治形態とし、下院は120議席から構成されること、を骨子とする制憲提案を発表したのだった。また、PFは9月24日に「拒否権をもたない20%の白人議席」に合意するとともに、白人議席数に関する具体案を提出した。これまで、白人指定議席を「人種主義的要素」として非難していたにもかかわらず、これを受け入れたのは、「ルサカ協定」に白人入植者に対する保護規定が盛り込まれていたからだった。しかし、キャリントンは10月3日、こうしたPFの提案を無視し、イギリス政府が一方的に作成した最終的な憲法草案を提出し、ムゾレワ政権とPFに対して受諾を迫った。これは先に提案された憲法草案を精緻化したもので、その特徴は以下の2点だった。

  1. 100議席から構成される下院に20議席の白人指定議席が設置され、この規定は独立から7年間、満場一致によってのみ改正しうるものとすること
  2. 国家諸機関を統轄する委員会のメンバーは、首相の勧告にもとづいて活動する大統領によって任命され、また各委員会が決定を下す際には、国家機関における適切な人種的構成をめざした大統領の全般的な政策指導を斟酌することがもとめられること

これらの規定は、ジンバブエ・ローデシア憲法の主要な欠陥として指摘されていた諸規定を改善したものだった。ムゾレワ政権は10月5日、この憲法草案と新たな総選挙の実施に同意し、経済制裁の解除を強く主張した。しかし、PFは市民権の問題と白人農園主に対する補償問題という2点に関連してこの憲法草案に異議も唱えた。まず、市民権の問題では、イギリス提案によればローデシアへUDI以後に移住した白人にも市民権が認められることになるが、これでは、ローデシア政府軍の傭兵にも市民権が認められると論難した。また、土地問題にでは、土地の再分配(白人入植者から土地を接収するため)に必要な、白人入植者への補償をイギリス政府が提供することを要求した。これらの問題に関する討議は、容易に進まなかったため、キャリントンは10月15日、PFがイギリス提案を受諾するまで会議への参加を認めないという強硬措置を発表し、問題を一挙に解決しようとした。こうした事態に直面して、10月17日、フロントライン諸国は、緊急首脳会談を召集してPF代表と協議を行い、席上、ニェレレは土地の再配分にともなう補償問題が、「制憲問題ではなく、たんなる政策上の問題であり、したがってイギリス政府とその同盟国によって容易に簡潔されうるであろう」と述べて、イギリス政府に譲歩を促した。そして、フロントライン諸国首脳は会議終了後、ランカスター・ハウス会議は、「全当事者会議であり、したがってPFを除いた問題の解決は受け入れることができない」というコミュニケを発表して、イギリス政府の一方的な議事運営を非難した。

フロントライン諸国の抗議を受けたためかは定かではないが、10月18日、PFは、土地の再分配にともなう補償問題にともなう補償問題に関して、イギリス政府とアメリカ政府が中心となって財政援助を行うという言質をとりつけたと述べて、イギリス提案の受諾を発表した。このとき、アメリカのカーター政権は、ローデシアとその隣接諸国に対して、10〜20億ドルの財政援助を検討中であったと言われている。

ちなみに、ムゾレワ政権がイギリス提案を受諾する際に、代表団の一員として参加していた前首相のスミスは、この提案を「狂気の沙汰」として一人これに反対し、イギリス提案への反対運動に白人入植者を結集すべく帰国した。しかし、ムゾレワ政権の一閣僚に過ぎないスミスには、もはや昔日の力はなかった。

暫定期間に関する討議

暫定期間に関する討議は、1979年10月22日にキャリントンが「独立までの暫定期間に関する提案」を提示したことによって開始された。この提案は次の7点を骨子とするものだった。

  1. 新憲法にもとづく総選挙を実施し、それに向けての平和的な選挙運動を補償することは、イギリス政府の法的責任であること
  2. イギリス政府は、この責任を履行するために行政および立法に関する全権を掌握する総督を任命し、他方、すべての政治指導者は、選挙運動に携わること
  3. 総選挙の監督は、イギリス政府が任命する選挙監督官によって行われること
  4. 選挙監督官の諮問機関として選挙評議会が設置され、これは選挙監督官を議長とし、選挙に参加する各組織の代表によって構成されること
  5. イギリス連邦諸国は、総選挙の監視のためにオブザーバーを派遣すること
  6. 政府軍の指揮官は、総督に対して責任を負うこと
  7. 警察は総督の指揮下に入り、暫定期間の治安維持にあたること

そして、キャリントンは暫定期間を2ヵ月とすることを提案した。これは、暫定期間が長くなるこおてゃ、政治的不安定の期間が長くなり、停戦が崩壊する恐れがあったからであった。これに対してPFは、PFとムゾレワ政権の代表が半数づつ参加する、暫定政府評議会と暫定防衛評議会の設置と、国連平和維持軍の導入を要求した。また、ムゾレワ政権は、総選挙がイギリス政府によって監視されることには同意しながらも、自分たちはローデシアを統治するために選出され、また大半のメンバーがUDIとは無関係であるため、暫定期間中も自分たちが統治すべきであると主張した。

これに対して、イギリス政府は暫定期間は各組織が総選挙にむけて自由に選挙運動を行えるようにすることを目的とするものであるため、政治指導者の仕事は選挙民に自らの政策を説明することであって、暫定期間中の国家行政に携わることではないとして、PFとムゾレワ政権の提案を拒否した。そして、キャリントンは11月2日、PFとムゾレワ政権の議論を踏まえることなく、先の提案を精緻化した最終提案を両者に示した。ムゾレワ政権は11月5日にこれを受諾した。

  1. 行政官庁、警察および政府軍などの国家機関は、総督の指揮に従うこと
  2. 暫定期間中、総督は既存の行政機構によって統治にあたること
  3. 総督の着任と同時に、ローデシアはイギリスの自治領として合法的路線へ復帰すること
  4. 総督は制憲会議の終了後、ただちにローデシアへ派遣され、暫定期間中、ムゾレワ政権はその機能を停止すること
  5. イギリス政府は、難民の帰国を支援すること
  6. PF軍および政府軍の役割は、停戦を遵守することであり、両軍の指揮官は総督に対して責任を負うこと。また、停戦状態を確保するために、両軍の指揮官から構成される機関が設置されること
  7. 総督は就任後、ただちに総選挙の日程を発表すること

イギリス政府は会議と平行して、11月7日、経済制裁を15%解除するための法案、および総督に対する権限の付与を含む、ローデシアの合法的路線への復帰のための法案を、議会で可決させて既成事実を積み重ねた。こうしたイギリスの活動は、最終提案に対する態度を保留していたPFを牽制する意味を含んでいた。PFはイギリス政府の最終提案に対してその核心をなす総督の「独裁的権限」を批判する一方で、最大の論点としてPF軍の地位の明確化を要求した。PFは停戦監視のためにはPF軍と政府軍が対等の立場に立つことが必要であり、したがってイギリス政府にPF軍を総督の指揮下に正式に編入するよう要求したのだった。キャリントンは政府軍と同様「愛国戦線軍もまた、総督の指揮に従うことが求められる」という規定を加えることに同意し、かくして11月15日、PFはイギリス政府の最終提案を受諾したのだった。

11月8日から3日間イギリスを訪れたカウンダは、PFおよびイギリス政府首脳と個別に会談し、両者の調停にあたったと言われている。最終的にPFがみずからの提案を取り下げて、イギリス提案をほぼ全面的に受諾したこと、他方、キャリントンも、この提案を「交渉の余地なき文章」と呼びながらもPF軍の地位に関する規定を加えたこと、などからみて、カウンダが両者に譲歩を促したことは十分に考えられる。

停戦協定に関する討議

制憲協定と暫定期間に関する協定が合意に達したことにより、ランカスター・ハウス会議は、最後の課題である停戦に関する討議へと進み、1979年11月16日、イギリス政府は停戦に関する計画案を提示した。

  1. 全当事者によって構成される停戦委員会は、両軍による停戦の遵守を監視すること
  2. 停戦監視軍が総督の権限のもとに設置され、これはイギリス連邦諸国から派遣される数百名の軍隊によって構成されること
  3. ザンビア、ボツワナ、そしてモザンビークは、越境攻撃の停止に協力するよう求められること
  4. PF軍と政府軍は、地理的にも分離されること
  5. 停戦は10日以内に実施されること

この計画案に対して、PFは独自の停戦計画を示したが、キャリントンはPFの提案を考慮することなく議事を進め、11月22日にはPFとムゾレワ政権に対して翌日までに越境攻撃を停止すること、および先のイギリス案を踏まえて起草された最終的な「停戦提案」に対する態度を11月26日までに明らかにすることを要求したのだった。この停戦提案は15項目からなり、停戦を履行するための基本的な枠組みを詳細に規定しているが、それを整理すると次の5点に要約される。

  1. PF軍と政府軍の指揮官は、停戦維持に関して総督に直接、責任を負うこと
  2. 総督の軍事顧問を議長として、両軍の代表から構成される停戦委員会が設置され、停戦を監視すること
  3. イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、ケニヤ、フィジーの各軍によって編制される停戦監視軍が創設され、政府軍の各基地とPF軍の集結地点、および国境通過地点に配置されること。なお、同軍は自衛のための武器のみを携行すること
  4. PF軍は、停戦維持のためにあらかじめ定められた15の地点に終結すること
  5. 停戦の実施は、2段階の手順を経て行われること。すなわち第1段階は、所定の日時に全当事者が停戦協定履行のための命令を発表し、越境軍事活動は停止され、そして停戦監視軍がローデシアへ派遣されること。第2段階は、停戦発効日に停戦委員会が発足し、停戦監視軍は配置につき、国内におけるすべての敵対行為は停止されること。なおPF軍の終結および停戦監視軍の配置は、7日以内に完了させること

ムゾレワ政権は、11月26日、この提案をわが国の主権および、わが国の指揮官の権限に対する耐え難い侵害と評しながらも、その受諾を発表した。しかし、PFはキャリントンの強引な議事運営を強く非難し、11月24日、ンコモおよびムガベ等は、ダルエスサラームにおいてフロントライン諸国首脳と協議を行った。交渉の行き詰まりを打開すべくイギリス連邦事務総長ランパル(Shridath Ramphal)等が、PFの説得にあたった結果、PFはみずからの提案を取り下げ、かわってPF軍の安全、ローデシア空軍に関する措置、イギリス連邦監視軍の拡大、南アフリカ軍の駐留といった諸点を明確にするようキャリントンに要求した。これに応えてキャリントンは、PF軍の安全はイギリス政府が保証すること、ローデシア空軍は停戦監視軍によって効果的に監視されること岡区約した。また、停戦監視軍の規模は1200人に増大させることに譲歩した。さらに、推定1200人といわれた南アフリカ軍のローデシア駐留に関して、キャリントンは暫定期間中、南アフリカを含む外部勢力の介入はありえないことを言明するとともに、南アフリカ外相ボータ(Roelof F. Botha)に対して、総督着任と同時に南アフリカ軍を撤退させるよう、すでに警告した旨を、PFに伝えた。こうして、PFは12月5日、イギリス提案を受諾して会議は停戦の具体的な日程に関する討議を残すのみとなった。

ジンバブエ法案とジンバブエ・ローデシアの終焉

ソームズ卿

イギリス政府は、制憲協定、暫定期間に関する協定、そして停戦提案が当事者間で合意に達したことを踏まえて、1979年12月7日、ソームズ卿(Lord Soames)を総督に任命するとともに、植民地としてのローデシアに共和国としての地位を付与する「ジンバブエ法案」を発表した。こうしたイギリス政府の行動は、会議における合意事項を一刻も早く履行することによって、問題の解決を確実なものにしようとしたイギリス政府の意図を示すものと言える。イギリス政府の動きに対応して、ジンバブエ・ローデシア議会は、1979年12月11日、「ジンバブエ・ローデシアは独立国としての地位を放棄し、イギリス自治領の一部となる」ことを規定した法案を満場一致で採択し、12月12日、ソームズ卿(Lord Soames)が到着したことによって、ローデシアはUDI以来、14年を経て「合法的路線」へ復帰したのだった。

一方、ランカスター・ハウス会議においては、停戦の履行期日をめぐって討議が進められた。イギリス政府は先の「停戦提案」に具体的な日程を盛り込んだ停戦協定案を示した。

  1. 1979年12月21日24時を期してPF軍と政府軍は、越境軍事行動を停止すること
  2. 1979年12月28日24時を期してローデシア国内におけるすべての敵対行為は停止され、両軍の指揮官は各々、武力衝突を避けるように命令を下すこと。そして同時に停戦委員会が発足し、停戦監視軍は配置につくこと
  3. PF軍の集結は、1980年1月4日24時までに完了されること

ムゾレワ政権は1979年12月15日、この停戦協定案を受諾し、他方PFもキャリントンが終結地点の増加を認めたことによって12月17日、これに合意したのだった。こうして、12月21日、イギリス政府、PF、ムゾレワ政権の各代表は、会議での合意事項を記した公式文書に調印し、102日間という長期間にわたって開催されたランカスター・ハウス会議はその幕を閉じた。

ジンバブエの独立

ムガベ首相

こうして、イギリス政府に反逆して独立したローデシア政府は、存在しなかったことになり、暫定管理のため1979年12月12日イギリス政府からソームズ総督が派遣され、ローデシアはイギリスの植民地に復帰した。行政機関、政府軍、独立勢力のゲリラ部隊はソームズ総督の指揮下に入り、1980年2月に総選挙が実施された。

1980年2月に実施された総選挙は、ランカスター・ハウス協定にもとづき、1980年2月14日、白人議席20をめぐって白人(アジア人とカラードを含む)選挙人名簿による選挙が、2月27日から29日まで、アフリカ人議席80をめぐって普通選挙人名簿による選挙が実施された。この総選挙により、ZANU-PFが57議席、PF-ZAPUが27議席を獲得し、UANCは3議席という結果に終わった。ちなみにPFは選挙前に統一戦線を解消し、各々ZANU-PFとPF-ZAPUとして選挙戦を戦った。

ZANUは多くの票を銃による脅迫によって獲得した、とも言われているが、イギリス連邦選挙監視団(COG)の報告書は1980年総選挙は全体として自由かつ公平なものであったと結論づけており、また、イギリス選挙管理委員会も「威嚇行為」に留意しながらも同選挙の有効性を確認した。

そして、1980年4月18日、南ローデシアはジンバブエとして正式にイギリスから独立し、ロバート・ムガベが新首相に就任。新政権成立にともない、事実上ローデシア軍の傭兵部隊であったRENAMOの管理は南アフリカ軍が握ることになる。また、ほとんどの戦闘部隊隊員は南アフリカ軍へ移籍する。こうして、2万人もの死者を出したローデシア紛争はやっと終結した。

グレートジンバブエ遺跡の「大囲壁」

ジンバブエの国名はジンバブエ国内にある、グレート・ジンバブエ遺跡に由来する。ジンバブエとはショナ語で「石の館」を意味している。また、首都ソールズベリーは、ショナ王のネハラワに因んでハラレと改名された。

ちなみに、スミス政権ではグレート・ジンバブエ遺跡をアフリカ人が作ったものではない謎の遺跡として「ミステリアス・ローデシア」というキャッチフレーズで観光宣伝を行っていた。

ジンバブエは成立後すぐに、ローデシアとは人種差別の友人であった、人種差別国家である南アフリカ共和国を批判し、国交を断絶することとなる。その後、南アフリカは元ZIPRA兵士に武器と訓練を与え、「スーパーZAPU(Super ZAPU)」を組織し、ジンバブエ国内で反政府活動を実施させた。

こうして誕生したジンバブエには、多数派支配体制のもとでの少数派に対する抑圧、あるいは少数派の利益に対する配慮の欠如といった問題が、普通選挙権によって生み出された体制が実現したことにより、新たに生み出されることになるのだった。