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アフリカの傭兵

傭兵は世界で二番目に古い職業と呼ばれており、古代から戦争の影には傭兵達が存在していた。1960年代から1970年代のアフリカでは、多くの傭兵達が紛争や内戦に参加していた。もちろん、ローデシア紛争にも、多くの外国人が参加しており、外国人が最も多く在籍していた、ローデシア・ライト・インファントリーは、『ローデシア外人部隊』の異名で呼ばれていた。

ローデシア紛争

クリス・ショーレンバーグ

クリス・ショーレンバーグ

南アフリカ出身のクリス・ショーレンバーグは、ローデシア軍に志願する。ローデシア・ライト・インファントリーに所属したショーレンバーグは、軍曹へ昇進した。

その後、ショーレンバーグは、ローデシアSASに転属し少尉に任じられた。ローデシアSASで、ショーレンバーグは目を見張る戦功をあげ、ローデシア青銅十字章(BCR)と、ローデシア銀十字章(SCR)を受賞した。ショーレンバーグは、ローデシアSASで初のローデシア銀十字章受賞者だった。ローデシアSASは、ショーレンバーグの傑出した戦功を称え、ウイング・オン・チェスト章を与えた。

そして、ローデシア軍での任期が終了したショーレンバーグは、南アフリカに帰国し、市民生活に戻った。だが、ショーレンバーグは市民生活が性に合わなかったようで、ヒックマン中将の誘いで、再びローデシア軍へ志願し、セルース・スカウツに大尉として参加する。

ショーレンバーグが、ローデシア軍に再入隊する際に提示した条件は破格のものだった。それは、大尉への昇進、1ヵ月ごとの契約(ローデシア陸軍の最短契約期間は3年間)、将校としての職務と指揮の放棄、黒人隊員との作戦行動の拒否、単独での作戦行動、というものだった。

ショーレンバーグは、セルース・スカウツでも数々の戦功をあげ、破格の条件に見合った活躍を見せた。また、ショーレンバーグは長距離偵察侵入に、高高度降下低高度開傘での空挺降下を取り入れて、ローデシア軍の偵察能力を向上させた。

こうして戦功を重ねたショーレンバーグ大尉は、1978年に、ローデシアで最高の勲章である、武勇大十字章(Grand Cross of Valor)を受勲した。ちなみに、武勇大十字章を受勲した者は、ショーレンバーグの他には、現在も本名を明かしていないローデシアSAS将校だけである。また、ローデシアの武功勲章を3つとも受勲した者は、ショーレンバーグとグラハム・ウィルソン少佐(Grahame Wilson)の2名のみである。

ロバート・カレン・マッケンジー

ボブ・マッケンジー

ロバート・カレン・マッケンジー、または、ボブ・マッケンジーは、1948年に米国で生まれ、1965年に米国陸軍に入隊しベトナム戦争へ従軍。米軍を退役後、ローデシアSASに入隊する。

マッケンジー大尉はローデシアSASの隊員として、越境作戦や暗殺作戦など数多くの作戦に参加し、多数の戦功をあげた。ローデシア崩壊後は、南アフリカ国防軍に参加し、その後、傭兵として、エルサルバドル、ブーゲンビル、ボスニアに参戦する。

1995年2月24日、民間軍事会社グルカ・セキュリティー・グループの指揮官として、グルカ兵を率いて、シエラレオネに入る。しかし、マラル・ヒルにて、統一革命戦線(RUF)部隊の待ち伏せ攻撃に遭い、マッケンジーは死亡する。

RUFのゲリラ兵は、マッケンジーの遺体の一部(心臓と言われている)を食することで損壊し、介入する者への警告とした。これを受けて、グルカ・セキュリティー・グループは、シエラレオネ政府との契約を破棄する。

マイケル・ウイリアムズ

マイケル・ウイリアムズ少佐は、アメリカ人で「メジャー・マイク」の異名で呼ばれていた。ウイリアムズ少佐は、第二次世界大戦中、第88歩兵師団の兵士として欧州戦線に従軍。その後、第10特殊部隊グループのオリジナル・メンバーとなり、朝鮮戦争に従軍した。

米軍を退役した後、マイク・ホアー大佐の傭兵部隊、第5コマンドー「ワイルド・ギース」に参加しコンゴ動乱に参加した。その後、南アフリカ国防軍の教官などを経て、大尉としてローデシア軍に迎えられた。

ローデシア軍では、グレイズ・スカウトの副司令官に就任した。ローデシア軍を退役した後のウイリアムズ少佐は、中南米へと移り住み、傭兵として活動した。

ダリー・ウィンクラー

ダリー・ウィンクラー少佐は、元米軍将校で、ローデシア軍に志願し、ローデシアン・アーマード・カー・レジメントで活躍した。ウィンクラー少佐の発案で、ローデシアン・アーマード・カー・レジメントは、黒のジャンプスーツを採用したため、その姿から「ブラック・デビル」(The Black Devils)と呼ばれ、恐れられていた。

ピーター・マカリーズ

英国で生まれた、ピーター・マカリーズは、1960年に英軍パラシュート連隊に入隊し、1年後には英第22SAS連隊での勤務を志願して、D中隊に配属される。D中隊に配属されたマカリーズは、アデンとボルネオでの戦闘に参加し、連隊随一の有能な兵士となる。

1969年に英陸軍を退役した後、1975年には傭兵となり、アンゴラで戦闘に加わる。その後、ローデシアに渡り、ローデシアSASに入隊、モザンビークへの越境作戦に参加し、1980年まで勤務する。

ローデシア崩壊後、南アフリカ国防軍に参加、第44空挺旅団に入隊し、准尉まで昇進する。南アフリカ国防軍を退役したマカリーズは、その後、ウガンダ、コロンビア、と傭兵の仕事をした後、英国に戻り、警備会社で働いた。

ジョン・バンクス

ジョン・バンクス

ジョン・バンクスは1946年に生まれ、英軍パラシュート連隊兵士として、アデン、キプロス、マレーシアに従軍する。不名誉除隊となったあと、傭兵としてベトナム、イラン、アンゴラで活動する。

1975年5月、ジョン・バンクスの設立した「インター・ナショナル・セキュリティー・オーガナイゼーション」が英国の新聞紙上にて傭兵を募集する。募集の内容は、ザンビア国境からローデシア国内に侵入し、ローデシアに対してゲリラ攻撃する傭兵を1000名募集するものだった。5月27日と28日には傭兵志願者をホテルに集めて説明会を行うが、支払いを約束していた依頼主が現れなかったため、話は頓挫しジョン・バンクスの「狂言部隊」としてマスコミで笑いものにされてしまう。

当初、現れなかった依頼主とは、ザンビアのカウンダ大統領とタンザニアのニエレレ大統領ではないかと言われていたが、本当の依頼主は英国政府であった。

この英国政府からの傭兵依頼が、正式に破棄されたのは7月29日だった。1975年8月15日には、ビクトリア・フォールズ会議が開催されている。英国政府は、ビクトリア・フォールズ会議に、ローデシアのスミス首相が参加しなければ、黒人抵抗組織側に白人傭兵を参加させる可能性もある、という脅しとしてバンクスを利用したのだった。

この「狂言部隊」事件の後も、バンクスは傭兵を集め、アンゴラ内戦に参加する。バンクスは、トニー・キャランと共に、アンゴラ内戦で、悪名を轟かせることとなる。バンクスのその後がどうなったのかは不明だが、トニー・キャランは1976年7月10日に、アンゴラで処刑されている。

コンゴ動乱

マイク・ホアー

マイク・ホアー

マイク・ホアーは「マッド・マイク」の異名を持つ傭兵で、1919年にインドで生まれる。両親は共にアイルランド人である。8歳でロンドンの寄宿学校へ入学、1938年に高校を卒業し、英国国防義勇軍に入隊する。

その後、下士官養成学校と将校養成学校を首席で卒業し、偵察連隊へ配属される。第二次世界大戦ではビルマで戦い、コヒマの攻防戦にも参加する。退役後、1949年に南アフリカのナタール州に移住し会計士として働く。1961年2月、白人傭兵部隊「インターナショナル・カンパニー」を設立し、第1次コンゴ動乱に参戦する。第2次コンゴ動乱では第5コマンド「ワイルド・ギース」(規模約300名)を率いる。

マイク・ホアーが、傭兵部隊にとって重要だとした能力は、速度と即興能力だった。そのため、「ワイルド・ギース」が得意とした戦術は、「ホアー・タッチ」と呼ばれる電撃戦術だった。具体的には、車両に乗ったコマンド部隊が、最高速度で敵の拠点に突入し、機関銃などの自動火器を撃ちまくるというものだった。この戦術は一見単純だが、統制の悪い敵ゲリラ部隊には、成功率90%を誇る大変有効な戦術だった。また、この戦術は、突撃が早すぎれば敵の待ち伏せに遭い、突撃が遅すぎれば敵の防御体勢が整ってしまうため、タイミングが非常に重要だった。

このように、ホアーは作戦行動において、速度と即興能力を重視していた。速度で敵から主導権を奪い、即興能力で臨機応変に事態の変化に対応することで、ホアーはアフリカでもっとも活躍した傭兵隊長となった。

速度と即興能力以外に、マイク・ホアーが重視したのは訓練だった。「ワイルド・ギース」の訓練は0600時から1800時まで、英国陸軍流の時間割と訓練水準で厳しく作られていた。また、士官と下士官の訓練には、図上演習や士官・下士官のみで行う模擬戦"Tactical Exercise Without Troops"を採用していた。

「ワイルド・ギース」は訓練と軍紀を重視していたが、それでも傭兵による略奪行為は無くならず、仕方のないものとして黙認されたり、マイク・ホアー自身によって兵站の一部(即興能力)として略奪行為が使用されたりもしていた。それでも、同時代の他の傭兵部隊(第6コマンドや第10コマンドなど)よりも、略奪行為は控えめなものであったようである。

1965年11月25年、モブツ将軍がクーデターにより政権を取る。これを潮時と考えたホアーは、1965年12月9日、第5コマンドの指揮権を部下のジョン・ピータース少佐に譲り、コンゴを去る。

ちなみに、マイク・ホアーが、「マッド・マイク」と呼ばれた理由の一つには、ホアーの指揮する傭兵部隊が、コンゴ動乱でスタンレービル(現キサンガニ)を占領した際に、見せしめのためとして、アフリカ人の大量虐殺を行ったと言われているからである。

こうして、コンゴを去ったホアーに、傭兵隊長としていくつかの仕事が打診されるも、金銭面での折り合いが付かずホアーは仕事を断る。その後、ホアーは、1981年にセイシェルでクーデターを企てるが部下の過失により失敗し、セイシェル空港にて銃撃戦となり、民間航空機を使ってセイシェルより脱出するも、南アフリカにてハイジャックや傭兵禁止法違反など複数の罪状により逮捕され1988年5月7日まで服役する。

また、マイク・ホアーは、映画『ワイルド・ギース』の軍事技術顧問も務めている。ちなみに、第5コマンドの部隊名「ワイルド・ギース」の由来は、16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ大陸で活動したアイルランド人傭兵が、自らをそう呼んだことに由来する。

アリステアー・ウィックス

アリステアー・ウィックス

アリステアー・ウィックスは、チャーチルやネルーを輩出した、英国のパブリックスクールであるハーロー校からオックスフォード大学に進み、法律を専攻した人物だった。ウィックスは、沈着冷静で礼儀正しく、傭兵らしからぬ雰囲気を持った人物である、と評されている。

ウィックスは第2次世界大戦後、ローデシアに移住しローデシア空軍の参謀将校を務めていた。その後、1961年には、大尉として「インター・ナショナル・カンパニー」へ参加、1961年8月28日の国連軍による傭兵狩り作戦により、コンゴから追放されて、ローデシアに戻り、ローデシア航空"Rhodesian Air Services"の代表を務める。

1964年の第2次コンゴ動乱では、マイク・ホアーの副官として第5コマンドに、少佐の階級で参加する。ホアーは自身の回顧録の中でウィックスへ、最も信頼出来る副官として、最大限の賛辞を送っている。

コンゴ動乱が終わったあと、ウィックスはビアフラ戦争に傭兵の仕事を求める。「エアー・トランスポート・アフリカ」という会社を作り、リスボン・ビアフラ間の、武器・弾薬輸送作戦を計画していたが、ナイジェリア政府軍側に付こうとしていたジョン・ピータースの妨害などもあり、上手くは行かなかった。その後、ウィックスがどうなったのかは定かではない。

ジョン・ピータース

ジョン・ピータース

ジョン・ピータースは、英国陸軍で軍曹として務めたあと、ローデシアに移住する。そして、ローデシア軍に入隊し、ローデシアSASで任務に就いていた。その後、1964年には、軍曹として第5コマンドに入隊する。

ピータースは、第5コマンドに入隊して、すぐに頭角を現しホアーの右腕として活躍し、大尉にまで昇進する。特に、ピータースが率いる「フォース・ジョン・ジョン」の活動はめざましかった。その活躍を評価したモブツ将軍は、ピータース大尉を「コマンダント・イン・ザ・フィールド」に昇進させた。

1965年12月9日には、マイク・ホアーから第5コマンドの指揮権を引き継ぎ、「ワイルド・ギース」の2代目指揮官となる。しかし、ピータースは野戦指揮官としては冷徹で非常に優秀だったが、司令官としてのピータースは、それほど優秀とは言えなかったようである。

ピータースは1967年2月に、ジョージ・シュローダーへ、第5コマンドの指揮権を渡しコンゴを去る。その後、ピータースはビアフラ戦争でナイジェリア政府側に、傭兵の仕事を求めるが失敗する。そのため、ピータースは、極東に新しい人生を求めたと言われているが、ピータースのその後を知るものは居ない。

ボブ・ディナール

ボブ・ディナール

ボブ・ディナールは、1929年11月20日にフランスで生まれる。フランス海兵隊の下士官としてインドシナで戦い、その後アルジェリアとモロッコの保安部隊で任務に就いていた。その後、傭兵としてアンゴラ、ベナン、ナイジェリア、ガボンおよびジンバブエ、またイランやイエメン、コモロ諸島などで傭兵として活動した。

第一次コンゴ動乱では「インター・ナショナル・カンパニー」に参加し、第二次コンゴ動乱では、1965年11月に第6コマンドの司令官に任命される。

第6コマンドの部隊編制は、第1突撃隊と第2突撃隊に別れていた。鎮定を主な任務としていたため、各突撃隊は、コンゴ国軍1個大隊を隷下に治めていた。第1突撃隊はノーディ大尉の指揮下、フランス人によって編制され、第2突撃隊はベラスコ大尉の指揮下、1965年末から導入され始めたスペイン人傭兵によって編制されていた。

ボブ・ディナールは、多くの作戦に参加するが、マイク・ホアーからは、ボブ・ディナールの指揮する第6コマンドは規律が無い上に、行動に迅速さが欠けており、無能であるとと評されている。しかし、白人のみで編制された第5コマンドとは違い、ボブ・ディナールが指揮する第6コマンドとジャン・シュラムが指揮する第10コマンドは、白人傭兵の麾下に黒人兵部隊を置く編制だったため、第5コマンドと単純に比較するのは無理があるだろう。

マイク・ホアーからは無能と評されたボブ・ディナールだが、コモロ諸島におけるクーデターを成功させている。この、ボブ・ディナールのコモロにおける成功に触発されて、マイク・ホアーは、セイシェル諸島でのクーデターを実行に移し、失敗することとなる。

ボブ・ディナールは、イスラム教に改宗しガボンで大統領の軍事顧問となったり、コモロ諸島では4回のクーデターに関与している。ボブ・ディナールの活動の後ろには、フランス政府の意向があると見られていた。

ボブ・ディナールは2007年10月14日に78歳で死去したが、晩年はアルツハイマーを患っており、2006年には、1995年のコモロ諸島でのクーデター未遂事件に関与した罪によりパリの裁判所で執行猶予付き5年の有罪判決を受けていた。

ジャン・シュラム

ジャン・シュラム

ジャン・シュラムは「ブラック・ジャック」の異名を持つ傭兵で第10コマンドの指揮官を務めていた。シュラムの作戦指揮は、神経過敏なほどの用心深さが特徴で「突撃嫌い」として有名だった。

シュラムはベルギーの高名な法律家の家に生まれ、18歳でプランテーションを運営するためコンゴに渡る。そこで、第一次コンゴ動乱に巻き込まれ、チョンベ軍の訓練教官となる。1961年の中頃には、自らの部隊「レオパルド大隊」を組織する。「レオパルド大隊」は典型的な植民地軍の編制を取っており、1名か2名の白人将校の麾下に、ベテラン下士官と、黒人兵30名で小隊を編制していた。規模は最大1000名余りだった。

1963年のチョンベ降伏後、シュラムは傭兵とカタンダ憲兵隊員を率いてアンゴラに撤退、1964年7月にはコンゴへ戻り、「新レオパルド大隊」と呼ばれる第10コマンドを編制する。シュラムはベルギー人農園主と密接に協力し、解放地域に政治支配を確立していた。

第6コマンドと第10コマンドは、フランス語を話す白人で編制された部隊だったが、第6コマンドはフランス人で、第10コマンドはベルギー人で編制されていた。フランス人とベルギー人が別々の部隊に編制されていた背景には、コンゴでの主導権争いのため、フランス人とベルギー人の間に深い不信感があったからだ。

また、シュラムの本業は傭兵よりも農園主であった。そのため、1967年5月、ベルギー人農園主のモーリス・クインティは、シュラムを自らの農園に招き、親チョンベ革命の必要性を訴える。罠であると警戒し話しに乗らなかったシュラムに対して、モーリスは、計画に加わらなければ、シュラムが同意したとモブツに知らせると脅した。身の危険を感じたシュラムはモーリスを射殺する。

そのような不穏な情勢の中、1967年5月、第5コマンド「ワイルド・ギース」は平穏に解体される。しかし、1967年7月4日、ディナールの指揮する第6コマンドと、シュラムの指揮する第10コマンドは、協同して傭兵による反乱を起こす。この反乱の背景にはフランス政府とベルギー政府の思惑もあったと言われている。だが、ボブ・ディナールは反乱を起こした直後に負傷し、さっさと戦線を離脱してしまう。それに加え、ポルトガルから約束された武器も供与されなかったため、万策尽きたシュラムはルワンダに撤退する。

シュラムは撤退にあたって、ディナール宛に電文を送った。内容は『こちらシュラム本人、状況は望みがない。弾薬は使い尽くした。事態をいかに終わらせるか考えつかない。あとで、君とはケリをつける。君は人殺しだ。終わり』というものだった。

その後、1968年4月23日にシュラムは、コンゴの英雄としてベルギーに戻るが、1968年6月27日、農園主モーリス・クインティ殺害の罪で逮捕・起訴される。保釈中の1969年春、シュラムはベルギー政府に対し、ブラジルへ商用目的での渡航許可を申請し、許可されて旅立つ。もちろん、シュラムはブラジルにはあらわれなかった。

ブラジルにあらわれなかったシュラムは、アンゴラやボリビアで傭兵として活動していると言われていたが、その後は噂もなく、現在まで消息不明である。

ロジェ・フォルケ

ロジェ・フォルケ中佐は、1961年1月25日に、ロジェ・トランキエール大佐の部下としてコンゴに入る。トランキエール大佐は、第1次インドシナ戦争で活躍し、アルジェリアでは植民地軍・第3空挺連隊の指揮官だった人物である。だが、トランキエール大佐は、ベルギー側の反対でコンゴを去ってしまう。それでも、フォルケはコンゴに残り、カタンダ憲兵隊の教育隊の校長など、カタンダ州の要職を経て、カタンダ州の州都エリザベートビルの総司令官となる。

1961年12月2日から、フォルケ率いるカタンダ憲兵隊と国連軍は、エリザベートビルで市街戦に突入する。フォルケは巧みな指揮で、戦闘を展開し国連軍の攻撃を支えるが、カタンダ憲兵隊3000名に対して、国連軍は倍以上の兵力を投入しており、制空権も国連軍側が掌握していたため、次第に戦況は悪化していく。そこで、カタンダ大統領のチョンベは、米国ケネディ大統領に仲介を依頼し、1961年12月21日に「キトナ協定」を結ぶ。この協定によって、カタンガはコンゴからの独立を放棄することとなり、エリザベートビルの市街戦は終結する。エリザベートビル市街戦の戦死者は、国連軍25名、カタンガ憲兵隊80名、白人傭兵6名だった。

「キトナ協定」により、カタンダ独立は消えたように思われたが、チョンベはカタンダ独立を諦めておらず、傭兵の新規募集や兵器の買付も密かに行われていた。しかし、カタンダ憲兵隊の総司令官だったフォルケを、国連の目を盗んで雇用し続けることは、さすがに出来ず、フォルケを解雇した。

1962年7月11日、カタンダ各地で、「カタンダ独立2周年」の式典が開催される。1962年12月4日、それに激怒したアドウラ政府は、停戦協定を破棄し、コンゴ国軍をカタンダ北部へ派遣、コンゴ国軍とカタンダ憲兵隊は再び戦闘に突入する。前回の戦闘では、フォルケの指揮の下で果敢に戦ったカタンダ憲兵隊だったが、フォルケの抜けた穴は大きく、簡単にエリザベートビルは陥落する。1963年1月14日、ほとんどの重要地点国連軍に制圧されたカタンダ政府は、カタンダの分離独立の終了を宣言し、チョンベはスペインに亡命、カタンダ憲兵隊4000名と白人傭兵50名は、アンゴラへ敗走した。

コンゴ動乱のあと、フォルケは1967年に始まったビアフラ戦争に、ビアフラ側の傭兵として参加する。しかし、ナイジェリア政府軍の実力を、甘くみていたフォルケとその傭兵部隊は、何の活躍も出来ずに敗北し、契約を打ち切って帰国してしまう。フレデリック・フォーサイスは「ビアフラの傭兵の貢献度は1%にも満たない」と著書『ビアフラ物語』に書いているが、その根拠は、フォルケのビアフラでの無能ぶりを、BBC特派員として現地入りしていたフォーサイスが目撃したからではないかと言われている。

ちなみに、フォルケが撤退した後も、ビアフラに踏みとどまって戦ったのが、後に第4コマンド旅団の指揮官となるロフル・シュタイナーだった。

チェ・ゲバラ

チェ・ゲバラ

チェ・ゲバラの愛称で呼ばれる、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナは、1928年6月14日にアルゼンチンで生まれた。その後、軍医としてキューバ革命に参加、フィデル・カストロに実力を認められ、キューバ新政府の閣僚となるに至った。

しかし、1965年1月、アルジェリアで行われた「アジア・アフリカ経済セミナー」において、ソ連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難する。そのため、1965年3月に、キューバ政府はソ連邦から「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」旨の通告を受ける。これを受けて、ゲバラはキューバ政治の一線から身を退く。そして「自由を求める人々が僕のささやかな努力を望む限り闘い続ける。永遠の勝利まで。革命か死か。」という別れの手紙をフィデル・カストロに残し、コンゴに渡る。

キューバ人傭兵部隊を率いて、コンゴに渡ったゲバラは、彼自身が高く評価していたローレン・カビラと共闘する。だが、カビラは「前線には全く来ず、街で酒浸りの役立たず」で、カビラ率いるコンゴ解放軍も、銃声が聞こえるだけで逃げ出すほどの士気の低さだった。そのため、苦境に立たされたゲバラは、自身の日記に「これほどの孤独感を覚えたのは初めてだ」と記すことになる。こうして、カビラ率いるコンゴ解放軍との共闘は、わずか7ヵ月で終わることとなる。

このように、ゲバラのコンゴでの活動期間は短いもので、その影響力は限られたものであったが、マイク・ホアーはゲバラの指揮するキューバ人傭兵部隊は手強い敵であったと、自身の回顧録に記している。

コンゴから極秘裏にキューバへ帰国したゲバラは、ボリビアに渡り、革命を起こそうとする。しかし、ボリビア共産党からは支援を受けることが出来ず、キューバからの援助も滞り、ついに、1967年10月8日、米国CIAの支援を受けたボリビア政府軍のレンジャー大隊に捕らえられ、翌日にイゲラ村の小学校で処刑された。ゲバラ最期の言葉は、射殺を躊躇しているボリビア軍兵士に対して"¡Po'ngase sereno ―me dijo― y apunte bien! ¡Va a matar a un hombre!"と言ったものだった。

その後、ラウル・カストロが指揮する、内務省情報管理局"Direccian General de Inteligence"の第5課に指揮された、キューバ人傭兵達は、ソ連邦の尖兵としてアフリカ各地の戦場に、軍事顧問やMIG戦闘機のパイロットとして展開する。アンゴラ内戦には、なんと35万人余のキューバ兵が従軍した。米国国連大使のダニエル・モニハンは、キューバ人傭兵達を「ソ連帝国のグルカ兵」と形容した。

ビアフラ戦争

ロフル・シュタイナー

ロルフ・シュタイナー

1933年1月30日にミュンヘンで生まれる。少年時代に「ヒトラー・ユーゲント」に参加していたため、「ナチスの亡霊」と呼ばれたが、1945年5月5日時点でシュタイナーは12歳であったため、ドイツ軍への入隊資格はなくナチスドイツでの軍歴は無い。シュタイナーはマイク・ホアーと同様に、傭兵の訓練を重視しており「戦場で一千発を費やすよりも、射撃場で五十発用いる方がベターである」と語っていた。

17歳でフランス外人部隊に入隊し、1951年6月にインドシナ戦争へ、1954年にはアルジェリア戦争へ派遣され、1956年頃には第一外人空挺連隊・第一中隊に配属された。1961年4月22日、第一外人空挺連隊が反乱を起こす。1962年にはテロ支援でフランス当局に二度逮捕される。

1967年5月30日、ナイジェリアからの分離独立運動、ビアフラ戦争が勃発。第1外人空挺連隊の元将校ロジェ・フォルケ大佐の紹介で、1967年12月27日に傭兵としてビアフラに入る。ビアフラ入りしたシュタイナーは、最前線に於いてその手腕を発揮し、ビアフラの指導者であるオジュク中佐から認められ、1968年3月13日にオジュク中佐の指令によりシュタイナーを指揮官として「第4コマンド旅団」が編制される。

第4コマンド旅団は、士気向上のため、揃いのグリーンの制服を着用し、「スカル・アンド・クロスボーンズ」の海賊旗を記章にしていた。また、シュタイナーなりの皮肉なのか行進曲には「ラ・マルセイエーズ」を使用していた。この第4コマンド旅団は「シュタイナー軍団」と呼ばれており、旅団内で最優秀の者を選び抜き、「ビアフラ・コマンド・ガード」というシュタイナーの親衛隊まで編制していた。

シュタイナーは第4コマンド旅団を率い善戦したが、武器・弾薬だけでなく、食料も底をついていたビアフラの戦況は悪化の一途をたどり、シュタイナーへの重圧は大きくなる一方であった。そのため、シュタイナーは精神の均衡を失って行き、奇行が目立つようになる。

1968年11月6日にシュタイナーは、オジュクを議長としてステートハウスにて開催された会議に出席し、辞表を提出する。シュタイナーを慰留されると思っていたが、辞表は受理され、11月10日にはリーブルビルへ追放される。追放の原因は、以前に、酔っぱらったシュタイナーがステートハウスに乱入し、オジュクに無礼を働いたこととされている。1970年1月12日にビアフラ共和国は降伏する。

シュタイナーの次の戦場は南部スーダンだった。シュタイナーは、南部スーダンの解放戦線「アニャニャ」を支援するため、1969年11月にウガンダから国境を越えて、南部スーダンに入り、1970年7月までに480名のコマンド中隊を編制する。しかし、1970年10月に政府軍へ攻撃を仕掛けるも、部隊が思うように行動せず、作戦は失敗に終わり、自らも負傷することとなる。

負傷したシュタイナーは、1970年10月4日にウガンダのカンパラに戻った。そこで、シュタイナーは、オボテ大統領とアミン将軍の政争に巻き込まれ、ウガンダ政府により身柄を拘束されてしまう。1971年1月10日には、シュタイナーはスーダン政府に身柄を引き渡され、1971年11月9日に死刑を宣告される(後に懲役12年に減刑)。1974年5月30日、西ドイツ政府の努力により解放されるも、服役中に健康を害していたシュタイナーは、二度と戦場に戻ることは無かった。

シュタイナーは、フレデリック・フォーサイスの小説『戦争の犬たち』に登場する傭兵のモデルとなっている。また、フォーサイスとビアフラの関係は非常に深く、1972年にフォーサイスは、ビアフラ人のために新しい国を提供しようと、『ジャッカルの日』の印税を遣って傭兵部隊を雇い、赤道ギニア共和国でクーデターによる政権転覆を図ったと言われている。

カール・グスタフ・フォン・ローゼン

カール・グスタフ・フォン・ローゼン

アフリカで活躍した傭兵達の多くは、金銭が目的で傭兵になった、いわゆる戦争屋だった。しかし、義侠心だけで傭兵となり、一切の報酬を受け取ることなく戦い抜いた傭兵がいた。それが、カール・グスタフ・フォン・ローゼンである。

ローゼン伯爵は1909年に、ストックホルムから南に120kmの場所にある、ロケル・スタット城で生まれる。ちなみに、ローゼン伯爵の姉、カリン・フォン・カンツォフは、ナチス・ドイツの国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻である。

ローゼン伯爵が、傭兵パイロットとして、初めて活動したのは、1935年のイタリア軍によるエチオピア侵攻でだった。1936年5月にアジズアベバが陥落するまで、ローゼン伯爵は医療支援のため、エチオピアの空を駆け回った。その後、1939年11月にソ連邦がフィンランドに侵攻すると、ローゼン伯爵は、フィンランド支援のために北欧の空を飛んだ。そして、第2次世界大戦後は、再びエチオピア空軍の近代化を支援した。

ちなみに、ローゼン伯爵の父である、エリック・フォン・ローゼン伯爵も、1916年のフィンランド独立戦争に、義勇兵パイロットとして参加している。エリック・フォン・ローゼン伯爵の功績は非常に高かったようで、フィンランド軍は、感謝と敬意をこめて、エリック・フォン・ローゼン伯爵の識別マークだった青いスワスチカを、国籍マークとして制定している。

その後、ローゼン伯爵は、国際便チャーター航空会社である「トランスエア」のパイロットとして勤務していた。1968年8月、国際救援組織から、トランスエアに対して、ビアフラ支援のためのチャーター便の依頼が舞い込む。そこで、ローゼン伯爵は、様々な妨害をものともせず、ビアフラへの救援物資を、見事にビアフラへ届けてみせるのだった。

ローゼン伯爵は、救援物資の輸送だけではなく、ビアフラ空軍の再建も手がけることとなる。まず、ローゼン伯爵は5機のサーブ社製の練習機"MF1-9B"を、ビアフラの友好国である、タンザニア政府に購入させガボンに運び込み、そこで武装を施してビアフラへ送り届けた。MF1-9Bは、COIN任務に使用することを前提として設計されていたため、300kgの武装を翼下のパイロンに取り付けることが出来た。

再建されたビアフラ空軍は、秘密基地にMF1-9Bを隠し粘り強く戦った。ローゼン伯爵自身も、ビアフラ空軍の作戦行動に参加し、5回出撃している。その後、ローゼン伯爵はエチオピアに戻り「エチオピアの爆撃」と呼ばれる、軽飛行機による飢餓民への食料投下に従事する。

ローゼン伯爵の最期は、1977年11月13日に訪れる。食料投下のために向かった町で、ソマリア人ゲリラに襲われて死亡したと言われている。享年は67歳だった。ローゼン伯爵は、困っている人々を助けるために戦い、そして斃れた。