Site Network: Institute of Rhodesian Army | Link

アフリカ人解放組織

「アフリカの年」と言われている1960年に、アフリカでは17ヵ国が独立を果たした。そして、1960年12月14日には国際連合総会において植民地独立付与宣言が可決された。その後も、アフリカでは1960年代に14ヵ国が独立を果たした。このような世界情勢の中、ローデシアにおいても、アフリカ人解放組織による独立運動が盛り上がって行く。

ローデシアにおける人種差別

1890年のイギリス南アフリカ会社(British South Africa Company, 以下BSAC)の編成した、パイオニア・コラムによるマショナランド遠征によって、「ローデシア」におけるアフリカ人の受難は始まった。

戦闘的だったンデベレ族を避け、非戦闘的なショナ族の住むマショナランドに進出した入植者たちは、マショナランドの鉱物資源の乏しさと農業の困難さに失望し、入手した土地の投機にはしるようになる。こうして、道徳心を失い略奪者と化した白人入植者達は、ショナ族とンデベレ族を収奪の対象とした。

白人入植者達は、アフリカ人に対する攻撃を「鶉撃ち」(Partridge Shoot)や「黒坊狩り」(Nigger Hunts)と称して、あらゆる残虐行為を正当化した。そのため、アフリカ人は武装蜂起を決意する。それが、1893年の第一次マタベレ戦争と、1896年の第一次チムレンガである。

こうした経験から、アフリカ人の反乱を恐れた白人入植者達は、アフリカ人の完全な隔離や完全な撲滅を求めるようになる。しかし、これには矛盾が存在していた。すなわち、南ローデシアの入植者達は、人種的にはアフリカ人を隔離するか撲滅したいと考えながら、実際の経済活動の中では、アフリカ人の労働力に依存せざるを得なかったのである。

そのため、白人入植者達は、安価な労働力獲得という利益を損なうことなく、社会生活面でアフリカ人と距離を置くために、様々な差別的な法律を制定していくのだった。

パイオニアコラム

白人入植者達は、まず、アフリカ人の居住、労働および移動の規制を行った。具体的には農村の「原住民指定地」(リザーブ)、都市の「黒人居住区」(ロケーション)、主従法、人口登録法さらにはパス法が考え出された。

このほかにも、日常生活において具体的で些細な点での分離が行われた。たとえば、公共施設(病院、ホテル、鉄道、レストラン、学校)では、白人専用のものが決められた。白人達は、人種間の関係「エチケット・コード」を細かく定めて、植民地における支配者と被支配者を区別する社会的相違の具体的手段を作り上げたのだった。

また、入植者達の家庭においても、アフリカ人と接する場においては、白人の地位を維持するため、白人が支配しアフリカ人が従属する、という心象を誇示するような態度である「プレステージ」(prestige)が重んじられたのだった。

アフリカ人による武装蜂起

第一次マタベレ戦争

ンデベレ族の戦士

「第一次マタベレ戦争(First Matabele War)」は、1893年7月、フォート・ビクトリア近辺で勃発した。BSACは20の金鉱区、3000モルゲンの農場、家畜を与えるという条件で、ソールズベリーやヴィクトリアから義勇兵を集めた。また、BSACはマキシム機関銃を5丁保有するなど、近代的兵器を装備していた。

ンデベレ族は10月24日のシャンガーニ、11月1日のインペンベシ、11月2日のエンパンディニの三つの戦いで、BSACに大敗を喫した。この第一次マタベレ戦争では、マキシム機関銃がBSACの勝利に大きな役割を果たした。従軍したウイラビー中佐は、報告書の中で「あの時、ンデベレ族の襲撃を小銃で迎え撃っていたら、撃退できたかどうかわからない。それ以来、ンデベレ族自身も小銃はたいして恐くないが、マキシム機関銃にはかなわないといっている」と報告している。

勝利したBSACは、ンデベレ族から28万頭の牛を取り上げて、白人農場に配分した。また、第一次マタベレ戦争で敗北したことで、ンデベレ族の戦力が弱まったため、白人達は比較的豊かな金鉱が存在した南部マタベレランドに進出することが可能となった。それにともない、ショナ族やンデベレ族の人々は、白人入植者による土地と家畜の略奪や、BSACによる課税のため著しい被害を被った。

第一次チムレンガ

チムレンガ(Chimurenga)とは、ショナ語で「解放闘争」を意味する言葉で、第一次チムレンガ(First Chimurenga)は、1896年にンデベレ族が蜂起した第二次マタベレ戦争(Second Matabele War)と、1897年のショナ族の蜂起を包括した名称である。

第二次マタベレ戦争は、1896年3月と6月に蜂起があり、6月の蜂起は西マショナランドの、チェグツ近くのマシャヤモンベの蜂起から開始された。ムチェムワに率いられたマングエンデの人々は、マロンデラ付近の店舗を襲い、ムヒリピリ率いるマコニの人々と合流し、近くの警察署を攻撃した。

ショナ族の蜂起は、マゾエ渓谷において、霊的な力を持つと白人移民に恐れられていた「ネハンダ(Nehanda)」に率いられていた。ネハンダは、白人移民はアフリカ人の生活を脅かしているとして「移民の弾は水に変わる」とショナ族の人々に告げ、恐怖を克服させたのだった。

この、第一次チムレンガでは、1897年末まで様々な地域で継続され、ヨーロッパ人側450名、アフリカ人側8000名の死者を出し、イギリス軍の援助を得た白人達によって鎮圧されることになる。

第一次チムレンガが勃発した原因は、1895年12月に発生した、ジェームソン侵入事件により、BSACの支配地域から軍隊と警察の姿が一時的に消えたからだった。

ちなみに、アフリカ人民族主義者達は、1966年から1979年のローデシア紛争を、第二次チムレンガ(Second Chimurenga)または、ジンバブエ解放戦争(Zimbabwe War of Liberation)と呼んでいた。

初期のアフリカ人解放運動

武装蜂起が鎮圧された後も、アフリカ人による抵抗運動が消滅した訳ではなかった。第一次チムレンガ以後、アフリカ人解放組織は、武力による蜂起を諦め、合法的な範囲内での活動に運動形態を変えていくことになる。この合法路線による運動形態には、次のような物があった。

アフリカ人エリートによる解放運動

アフリカ人エリートによる解放運動の特徴は、アフリカ人民衆を組織することではなく、選挙権を有するアフリカ人エリート層を組織することだった。その目的は、選挙権を有するアフリカ人エリートを組織することで、議会においてアフリカ人に有利な立法を行うことだった。

そのため、1923年には「ローデシア=有権者協会(RBVA)」が、他にも「グウェロ原住民福祉協会」や「ローデシア原住民協会」など、アフリカ人エリートによる集団が組織された。しかし、アフリカ人有権者は、議会に及ぼす影響が少なく、ヨーロッパ人政権から何の譲歩も引き出すことが出来なかった。

ンデベレ族による解放運動

ンデベレ族による解放運動の目的は、ヨーロッパ人によって奪われた土地の回復と王の復権だった。ローベングラ王の息子、ニャマンダは、南アフリカANCの助力を得て、第一次チムレンガの際の組織を母体として「マタベレ祖国運動」を組織した。

マタベレ祖国運動は、南アフリカにあるイギリス高等弁務官府や、ロンドンに陳情団を派遣したが、ヨーロッパ人政権からは何の譲歩も引き出すことが出来なかった。

アフリカ人労働組合による解放運動

「ローデシア工商労働者組合(以下RICU)」は、ローデシアで初めて結成された労働運動組織で、南アフリカの「工商労働者組合(以下ICU)」の支援を受けて結成された。しかし、RICUはICUのようにストライキという、積極的な行動を行うことはなかった。

また、RICUは、アフリカ人労働者とヨーロッパ人労働者の連合を呼びかけており、1930年に開かれたRICU会議には、ヨーロッパ人労働運動指導者であるボーデンが参加し、開会講演を行った。しかし、ヨーロッパ人政権とヨーロッパ人労働者が連携するようになったため、アフリカ人労働者とヨーロッパ人労働者の連合は実現することが無かった。

最終的にRICUは、党費調達の失敗や指導者の逮捕・投獄により著しく弱体化し、1930年代半ばには解体されることになった。

アフリカ・キリスト教会による解放運動

キリスト教はヨーロッパ人によって、南ローデシアに導入され、キリスト教会は特許会社や後のヨーロッパ人政権と密接な協力関係にあった。そのため、1928年にアフリカ人キリスト教徒によって「南ローデシア・キリスト教原住民伝道会議」が結成されるが、ヨーロッパ人による「ローデシア伝道会議」の管理下に置かれていた。

南ローデシア・キリスト教原住民伝道会議が、RICUの影響を受けるようになると、ローデシア伝道会議は、RICUに参加したアフリカ人を、南ローデシア・キリスト教原住民伝道会議から除名するとした。

1930年代を通じて、「ヴァポストリ運動」「シオニスト運動」「ウォッチ・タワー運動」など、アフリカ人教会運動が盛り上がりを見せたが、それらのアフリカ人教会運動は、政治活動には発展しなかった。

1934年には「南ローデシア・アフリカ民族会議(以下SRANC)」がつくられるが、SRANCが本格的に政治活動を開始するのは、1950年代に入ってからだった。

本格的アフリカ人解放組織の登場

アフリカ民族会議 "ANC"

ンコモ

アフリカ大陸の非植民地化という歴史的趨勢の中で、ローデシア・ニヤサランド連邦に所属していたニヤサランドは1964年7月6日にマラウイとして、北ローデシアは1964年10月24日にザンビアとして独立した。こうして、ローデシア・ニヤサランド連邦は崩壊し、残った南ローデシアでもアフリカ人による独立運動が盛り上がりを見せる。

そのような民族自決の歴史的潮流の中、ローデシアでは、多数派であるアフリカ人だけではなく、歴史的趨勢に逆らうかのように、少数派のヨーロッパ人達が自分たちの権益を守るために独立を求めるようになる。

英領南ローデシアのヨーロッパ人たちは、自らの権益を守るため「ローデシアにおける人種差別の礎石」ともいうべき「土地配分法」(1931年制定)をはじめとして、多くの人種差別的な法律によって、アフリカ人を支配していた。その中でも、1951年に制定された「土地耕作法」(the Land Husbandry Act)はアフリカ人の伝統的な生活様式を破壊するため、多くのアフリカ人が反対し、南ローデシアで初の全国的アフリカ人民族主義組織である、アフリカ民族会議 (the African National Congress, 以下ANC)が1957年9月に結成された。

ANCはンコモ(Joshua Mqabuko Nyongolo Nkomo)が議長を務め、「人種協調主義」を組織理念としており、人種を越えた「ローデシア全住民の国民的統一(national unity)」を目標とし、そのメンバーシップは人種を問わないことなどを綱領に規定していた。これには、白人政権に対する、アフリカ人民族主義者の配慮が見受けられる。

ANCは穏健な綱領とは異なり、積極的な活動をローデシア全土にわたって展開した。ANC以前のアフリカ人解放組織は、活動範囲が都市部に限られていたが、ANCはその活動範囲を農村部にまで広げることに成功し、総党員数は17,000人(そのうち白人党員は100人)に達し、1年間に約50の支部をつくることに成功した。これは、「土地耕作法(the Land Husbandry Act)」に反対するアフリカ人農民を動員することに成功したためだった。

このように、ANCの活動は盛り上がりを見せたが、それにも限界があった。それは、ANCが自らを多人種組織と規定していたため、アフリカ人の利益だけを代表することが出来なかったこと、さらには、ANCは地域を越えてアフリカ人民衆の不満を結集しながらも、その解消を白人政権に求めるといった、いわば体制内の抗議運動の域を出ず、ローデシアの政治体制そのものを変革しようとする方向に向かわなかったことである。つまり、白人政権がANCの要求を拒絶しても、それ以上、なんら有効な抗議手段をANCは持たなかったのだった。

このように、ANCの綱領には、ローデシアの体制自体を変革するような規定がなく、ローデシアの政治的枠組みの中で活動していた穏健な組織であったが、ANCの活動は、白人政権の警戒心を喚起するには十分なものであり、ローデシア首相ホワイトヘッドは、1959年2月にANCを非合法化し、アフリカ人指導者達を拘禁し、さらに弾圧法を次々と制定し、アフリカ人民族主義運動の弾圧に乗り出した。そのため、ANCは解散し、後継組織として、国民民主党が結成される。

国民民主党 "NDP"

国民民主党(the National Democratic Party, 以下NDP)はANCの後継組織として、1960年1月に結成された。議長はANCと同じくンコモだった。

ヨーロッパ人政権は、農村部におけるアフリカ人民族主義運動を禁止しため、NDPはローデシア国内での活動縮小を余儀なくされたが、それでも1961年中頃には党員数が25万人に達した。また、それまで民族主義運動に参加していなかった、アフリカ人知識人が参加したため、運動の質が向上した。

NDPはANCが非合法化されたためにつくられた後継団体だったが、ただ名称を変えただけ、という訳ではなかった。NDPとANCの異なる特徴としては、NDPは1人1票制の選挙による多数支配への移行を前面に押し出していたことだ。つまり、NDPはローデシアの政治体制自体の変革を目指していた。

NDPの目標は、制憲会議によって1人1票制の原則にもとづく憲法を起草し、平和的かつ合法的に多数支配へ移行することだった。そのため、NDPがイギリス政府に請願した結果、1961年1月から2月にかけて、ソールズベリーにて制憲会議が実現し、憲法草案(1961年憲法)がつくられた。

しかし、憲法草案の内容は多数支配には、ほど遠い内容だったため、NDPは再度、イギリス政府に対して請願活動を行うが、イギリス政府はヨーロッパ人政権の合意なしに、ローデシアの国内問題には干渉できないとした。

こうして、請願活動による、平和的かつ合法的な手段による、多数支配への移行は暗礁に乗り上げてしまった。このような、運動の行き詰まりによって運動は次第に過激化し、流血の暴動へと発展していった。このような状況の中、NDPを脱退したマウェマ(Michael Andrew Mawema)が、ジンバブエ民族党(Zimbabwe National Party, 以下ZNP)を結成するなど、ンコモの求心力は失われていった。そうして、1961年12月にはNDPは非合法化される。そのため、NDPは解散して、ジンバブエ・アフリカ人民同盟が結成される。

ジンバブエ・アフリカ人民同盟 "ZAPU"

ジンバブエ・アフリカ人民同盟 (Zimbabwe African People's Union, 以下ZAPU)は、NDPの後継組織として、NDPが非合法化されて1ヵ月もたたぬ、1961年12月に結成された。議長はNDPと同じくンコモだった。

ZAPUは、国連に働きかけることで、国際世論を喚起し、国連からイギリス政府に対して、新たな制憲会議を招集するよう圧力をかけることを、目的としていた。ZAPUの活動により、ローデシアの政治状況を世界中に知らしめることに成功し、ヨーロッパ人政権を国際的孤立状態に追い込むことには成功した。

しかし、イギリス政府は制憲会議の招集を求めた、国連決議を無視したため、ZAPUは目的を達成することが出来なかった。ここまで来て、アフリカ人の間にアフリカ人解放運動には、流血や暴力を避けて通ることが出来ない、という確信が深められたと言われている。

ZAPUは、活動上の行き詰まりを克服することが出来ず、結成してわずか9ヵ月で非合法化されてしまう。その後、アフリカ人民族主義運動は、組織分裂と派閥抗争を繰り返すという、最悪の事態に向かっていった。

そのため、南ローデシアにおいて、アフリカ人解放組織が、有効な運動を起こすことが出来るようになるのは、1970年代に入ってからだった。また、1979年のローデシア崩壊に至るまで、アフリカ人抵抗組織は、南ローデシア国内に本拠地を持つことは出来なかった。

ローデシア紛争の開始

人民暫定評議会 "PPC"

スミス政権により非合法化されたZAPUは、1963年8月にンコモ率いる人民暫定評議会(People's Caretaker Council, 以下PCC)と、シトレ(Ndabaningi Sithole)率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟(Zimbabwe African National Union, 以下ZANU)に分裂することになる。

このZAPUの分裂は、アフリカ人解放組織を、ローデシアの政治的舞台から後退させる主な要因となる。分裂の原因は、ンコモの穏健路線に、シトレとムガベ(Robert Gabriel Mugabe)を中心とした急進派が反対したためであった。また、PCCとZANUに分裂した後も、PCCは国外ではZAPUを名乗っていた。

ZAPUのPCCとZANUへの分裂を受けて、アフリカ統一機構(Organisation of African Unity, 以下OAU)は、両組織の対立を調停し、アフリカ人解放組織の一本化をはかったが成果はあがらなかった。そのため、1963年12月には、OAUアフリカ解放委員会は、PCCとZANUの両組織をローデシアにおける正統なアフリカ人解放組織であると、承認することになる。

その後も、PCCとZANUは派閥争いを繰り返したため、効果的な運動を展開することが出来なかった。そうする内に、1964年4月16日にンコモが逮捕され、1964年8月21日にはPCCとZANUは非合法化される。

このような、スミス政権の厳しい弾圧のため、国内に拠点を置いたPCCは活動停止状態に追い込まれたため、以後は、PCCの国外組織であり、ザンビアやタンザニアに拠点を持つ、ZAPUが活動の主流となる。

この、ZAPUは1964年の中頃に、ザンビアのルサカに支局を設置していた。ZAPUは、このルサカ支局を重視しており、副議長チケレマ、財務局長モヨ(Jason Ziyapapa Moyo)、情報局長シルンディカ(George Silundika)を配置していた。

しかし、1960年代のローデシアにて盛り上がりを見せたアフリカ人解放運動は、PCCとZANUの非合法化によって幕を下ろし、1971年にアフリカ民族評議会が結成されるまで、ローデシア国内における組織的なアフリカ人解放運動は再開されなかった。

ジンバブエ・アフリカ人民同盟 "ZAPU"

ローデシア国内に拠点を置いたPPCが、スミス政権の弾圧により活動停止に陥ったため、ZAPUの名称を国外で継続使用していたPPCの国外組織が、再び解放運動の主力を担うことになった。

ザンビアに拠点を置くZAPUを支援していたのは、主にソビエト連邦だった。実際にZAPUのゲリラ兵の訓練は、ソ連邦、キューバ、アルジェリア、ブルガリア、北朝鮮、ザイール(カタンダ州)などで行われた。

ZAPUは52名のゲリラ兵を、1964年3月から1965年10月にかけて、ソ連邦、中国、北朝鮮に送り込み、訓練を受けさせた後、ローデシア国内に侵入させた。

南アANCとの軍事同盟

また、ZAPUは、南アフリカのアフリカ民族会議(African National Congress, 以下南アANC)の、軍事部門である「民族の槍(Umkhonto we Sizwe, 以下US)」と、1967年半ばから1969年までの時期に軍事同盟を結んでいた。このZAPUとUSの軍事同盟は、1967年8月19日に、ZAPU副議長チケレマと南アANC副議長タンボ(Oliver Tambo)によって、正式に発表された。両者が軍事同盟を結んだ背景には、両者がソ連邦から援助を受けていたことが関係していると言われている。

ZAPUとUS連合部隊とローデシア政府軍の衝突は、確認されているものだけで、3回発生しており、第1回は1967年7月から9月にローデシア西部のワンキー地区、第2回は1967年12月から1968年4月に北部地域で、第3回は1968年7月から8月に北部地域で発生した。

このZAPUとUSの軍事同盟は、ローデシア軍の反撃により、戦術的な目標を達することが出来なかったが、ローデシア政府に危機感を持たせることとなり、1967年8月頃から開始された南アフリカの軍事介入を誘発することとなった。また、この敗北はZAPU幹部に、戦術的な再検討をせまることになった。

この戦術転換を切っ掛けにして、1970年から1971年にかけて、ZAPUは深刻な内部分裂を起こすことになる。この内部分裂によって、USとの同盟も終わりを告げることになる。

ZAPUの内部対立

ZAPUの内部分裂は、財務局長モヨによって口火が切られることになる。モヨは1970年2月に「われわれの闘争に関する所見」と題されたパンフレットを発表、その中でチケレマの独裁的リーダーシップを批判した。それに対抗して、副議長チケレマは1970年3月に「われわれの闘争に関する所見への回答」を発表し、モヨとンデベレ人が反乱を計画していると非難した。

副議長チケレマ、書記長ニャンドロ(George Nyandoro)と、それに対する、財務局長モヨ、情報局長シルンディカ、副書記長ンドロヴ(Edward Ndhlovu)の両派対立は、チケレマ派がショナ人で、モヨ派がンデベレ人であったことから、民族対立まで加わり、組織を二分する派閥対立へと発展していった。

ZAPUの内部分裂に対して、ザンビア大統領カウンダが介入し、チケレマ派とモヨ派の両者が和解しない場合には、国外へ追放すると警告するに至った。ザンビアから追い出されることを恐れた両者は一応の和解をするに至ったが、ZAPU内部の対立構造は解消されなかった。

1970年6月頃から、ZAPUの副議長チケレマと書記長ニャンドロ、ZANUの議長チテポ(Herbert Wiltshire Tfumaindini Chitepo)と外務局長のシャムヤリラ(Nathan Shamuyarira)の間で、ZAPUとZANUを合同させて、アフリカ人解放組織を統一させるための交渉が始められた。

この動きに対して、ローデシア国内で拘禁中のZANUの元議長シトレは、ZAPUとの統合に懐疑的であるとチテポに伝え、また、ZAPUのモヨ派もこうした動きを非難した。

1971年2月15日と16日に、タンザニアで開催された第18回OAU解放委員会は、ZAPUとZANUの統合への動きを評価しながら、ZAPUの内部分裂がZAPUとZANUの統合を妨げる障害になるとして、ZAPUの内部分裂を緊急に解消するように要求した。

2月22日には、2月26日までに内部分裂が解決されない場合、解放委員会は以後、ZAPUに対する援助を打ち切ると通達した。ZAPUに対する解放委員会の援助は、同年6月に再開された。

こうしたOAU解放委員会の勧告にもかかわらず、ZAPUの内部対立は、1971年3月には頂点に達し、ザンビア政府の実力行使を招くこととなる。

ZAPU軍事部門に属する数名のメンバーが、同組織の実権を握ろうと企て、21人の幹部を誘拐した。そのため、ザンビア政府は、ZAPUの内紛に介入し、ZAPUのゲリラ兵を1ヵ所に集め、内部対立を解消するように迫った。しかし、ZAPUの軍事部門のメンバーは、それを拒否したため、ザンビア政府は150人以上を逮捕し刑務所に送り、6月末、129人をローデシアへ追放した。こうして、ザンビア政府の介入により、ZAPUの内部紛争は表面的には解決を見た。

しかし、ZAPUとZANUの統合問題は順調には進まなかった。1971年8月、ルサカ近郊において、ZANUの代表者会議が開催され、その直後に、ZANUはZAPUとの交渉打ち切りを発表した。交渉を打ち切った理由は、ZAPUのような内部分裂した組織と話し合うことは不可能である、と言うものだった。この交渉打ち切りは、ZANUの指導部の再編も意味するもので、この会議において、ZAPUとの交渉継続を主張するメンバーが追放されたのだった。

ZANUの発表に対してカウンダ大統領、ZAPUとZANUがザンビアに留まることを望むのならば、両組織は統合されなければならない、と警告した。

ジンバブエ解放戦線 "FROLIZI"

ZAPUとZANUがザンビアに留まることを望むのならば、両組織は統合されなければならない、というカウンダ大統領の警告を受けたためかどうかは定かではないが、1971年10月1日、ルサカにてジンバブエ解放戦線 (Front for the Liberation of Zimbabwe, 以下FROLIZI)の結成が発表された。

議長にはZANUの軍事部門の指導者であったシウェラ(Shelton Siwela)が就任し、ZAPUとZANUそれぞれの「統合派」である、チケレマ、ニャンドロ、シャムヤリラなどは、同組織の執行部であるFROLIZI評議会のメンバーになった。

記者会見の席上で、シウェラが発表したところによれば、FROLIZIの結成目的は、解放組織間の「過去の見解の相違を忘れ、イギリス植民地主義に対する長期的かつ決然たる人民闘争を行なうべく、反帝国主義・民族統一戦線に結集すること」であった。しかし、同組織の存在理由は、ZAPUとZANUの非難声明によって簡単に否定されてしまった。

ZAPUは、FROLIZIを「政治的不合格者の天国」と酷評し、ZANUも「この馬鹿げた策略」に巻き込まれるようなメンバーなど、同組織には存在しないであろう、と反発した。こうして、FROLIZIは、分裂した解放組織の統合を目指しながら、逆に組織分裂を細分化してしまったのだった。

この事態に直面したザンビアとOAU解放委員会は、FROLIZIに対する全面的な承認や支援を与えることをためらった。

1972年1月12日から18日にかけて、リビアのトリポリで開催された、第18回OAU解放委員会定例会議において、同組織の承認問題が議題として話し合われたが、結論が出ず、1972年3月20日から23日にかけて、タンザニアのムベヤで開かれた解放委員会の会議において、FROLIZIに対する援助供与のみが決定された。

結成以後、FROLIZIは、リーダーシップをめぐる内部抗争を繰り返し、1972年8月に開かれた会議において頂点に達した。同会議において、シウェラが失脚し、チケレマが議長の座についた。FROLIZIは活動としては、1973年2月にゲリラ兵をローデシア国内に送り込んだが、1973年6月には事実上、崩壊し多数のメンバーがZANUに戻ったと言われている。また、OAU解放委員会は、同年11月、FROLIZIに対する公式な承認を最終的に否決した。

ジンバブエ人民革命軍 "ZIPRA"

ZAPUの内部対立は、不満分子がFROLIZIに分離したこともあり、1971年末までには終了し、この時期にZAPUの軍事部門が再編され、ジンバブエ人民革命軍(Zimbabwe People's Revolutionary Army, 以下ZIPRA)と名付けられた。ZIPRAには最高司令部が設置されたが、戦略に関する決定はZAPUの最高機関である人民革命評議会(People's Revolutionary Council)によって行われた。

ZAPUは軍事部門再編に当たり、新戦略を採用した。新戦略は1960年代後半の失敗から学び、ローデシア軍との武力衝突の回避、侵入地域のアフリカ人住民に対する政治教育を重視したもので、サボタージュやヒット・エンド・ラン戦術に即したゲリラ活動を展開した。

ヒット・エンド・ラン戦術とは、具体的には、ゲリラ兵が夜間にザンベジ川を渡り、ローデシア軍がパトロールする道路に地雷を敷設し、すぐにザンビアへ引き返す、というものだった。

アフリカ民族評議会 "ANC"
ムゾレワ

アフリカ民族評議会(African National Council, 以下ANC)は、1957年に結成された「アフリカ民族会議」"the African National Congress"に因んで命名された組織で、1971年12月16日に記者会見が開かれ、結成が正式に発表された。

議長には司教ムゾレワ(Bishop Abel Tendekai Muzorewa)が、副議長には牧師バナナ(Rev. Canaan Banana)が就任した。執行委員会10名にはZAPU、ZANUのメンバーからバランスよく選出された。

ANC結成の際に、もっとも注意が払われたのは、指導者の選定だった。なぜならば、ZAPUかZANUのメンバーが指導者の地位に就いた場合、内部分裂の可能性が大きいことが、わかっていたからだった。

ANCの初期の性格は、スミス・ヒューム協定に対する抗議運動にアフリカ人民衆を動員することと、アフリカ人解放組織のスミス・ヒューム協定に対する拒否姿勢を、ピアース委員会に印象づけるために、ZAPUとZANUによって結成された一時的な組織だった。

しかし、ANCは国外に本拠地を置く、ZAPUやZANUの配下にあった組織と言い切ることは出来ない。なぜならば、ANC結成にあたって、もっとも配慮されたことは、ANC内部に派閥抗争を持ち込まずに団結を維持することにあったからだった。そのため、当時、教会活動を通じて反政府運動を展開していた司教ムゾレワと、それまで反政府運動に参加したことのなかった、牧師バナナが指導者に選出されたのだった。したがって、ANCはZAPUやZANUから一定の距離を置いた独立の組織と考えることが出来る。

ANCに対するスミス政権の弾圧は、次第に激しくなっていった。1972年1月にはチナマノを含む100人以上のアフリカ人が逮捕された。その中、ANC議長のムゾレワは、1972年2月中にイギリスとアメリカを訪れ、さらには国連安保理に出席して、国際世論を喚起し、スミス・ヒューム協定の撤回に大きな影響を与え、ANCが結成された当初の目標を達成したと言える。

1974年12月4日から開催されたルサカ会談において、アフリカ人解放組織の統合問題が話し合われ、「ジンバブエ統一宣言」が各解放組織の代表によって調印され、各組織は名目上、ANCのもとに統合されることになった。この統合は、ANC以外の解放組織を解体するものではなく、1975年8月25日のビクトリア・フォールズ会議に備えての共同戦線を結成した程度のものだった。

合同軍事司令部 "JMC"

OAU解放委員会による解放組織の統合への働きかけは、FROLIZI結成以後も続けられていた。そして、1972年2月14日から18日にかけてアジズアベバにて開催された第18回OAU定例閣僚会議にて、ZAPUとZANUは共同で、政策と軍事問題に関する調整計画案を提出した。そして、ZAPUとZANUは、1972年3月20日から23日に、タンザニアのムベヤでの開催されたOAU解放委員会の会議において、合同軍事司令部 (Joint Military Command, 以下JMC)の設置に関する議定書に調印したのだった。

JMCはゲリラ兵の徴募、訓練、作戦行動、補給などの軍事レベルにおける共同活動という限られた機能を有するものであったが、具体的な成果を生み出すことなく、消滅してしまった。

ANCの分裂

1975年8月25日、ビクトリア・フォールズ会議が開催されたが決裂する。ビクトリア・フォールズ会議の決裂は、表面上は統一を保っていたANCに大きな影響を与え、ANCの分裂を促進することになった。

1975年9月11日、ムゾレワがルサカにおいて、ローデシア国内で一方的にANC全国大会を開催しようとしたことを理由に、ンコモをANCから追放すると発表した。これに対して、9月28日にソールズベリーで、ANC全国大会が開催され、ンコモが議長に、チナマノが副議長に選出された。こうして、ANCは、武力闘争を主張するムゾレワ派(ANC国外派)と、交渉継続を主張するンコモ派(ANC国内派)に分裂した。

ンコモの戦略は、国内ではスミス政権との交渉を継続することで平和的解決を模索しつつ、ZAPU幹部のモヨにザンビア国内に基地を持つZIPRAの指導を委ね、武力闘争を継続させるという、和戦両様の構えだった。

こうして、ンコモはZAPUに立ち戻ったのに対して、国外には組織基盤を持たなかったムゾレワは、解放勢力の中で孤立した存在となり、そのことがムゾレワを後に「内部解決」へと踏み切らせた主な原因になったと言われている。

ジンバブエ人民軍 "ZIPA"

またANCの分裂と同時期の、1975年9月に、ンコモの許可を得たモヨは、ZANUと軍事部門を統合するべく、ZANU幹部と接触を開始し、両者は各組織9名ずつの代表から成る合同最高司令部の設置に合意し、ジンバブエ人民軍(Zimbabwe People's Army, 以下ZIPA)が誕生する。しかし、ZIPAはゲリラ・キャンプで両組織の度重なる衝突事件によって頓挫してしまう。この後も、ZAPUとZANUの軍事部門を統合する試みが討議されたが、ついに実現はしなかった。

愛国戦線 "PF"

ZAPUとZANUの軍事組織の統合は実現しなかったが、1976年10月9日に、ZAPU議長ンコモとZANU議長ムガベによって、両組織の統一戦線である、愛国戦線(Patriotic Front, 以下PF)が結成された。OAUとフロントライン諸国は、PFをジンバブエを代表する唯一の組織と承認した。PFの結成により、以後は両組織をPF-ZAPUとZANU-PFと呼んだ。

最終的に、PFはローデシア国土の90%を、作戦地域としていると発表していた。また、約5000名のゲリラ兵をローデシア国内に送り込んでいたPF-ZAPUは、1979年4月に、解放闘争が解放区に行政機構を確立する段階に達したことを宣言した。このPF-ZAPUの発表は1979年9月3日にムゾレワ政府軍司令部がローデシアのほぼ全域に戒厳令を公布されたと発表したことによって、裏付けることが出来る。

ジンバブエ・アフリカ民族同盟 "ZANU"

シトレZANU議長

ジンバブエ・アフリカ民族同盟(Zimbabwe African National Union, 以下ZANU)は、ZAPUから分裂した組織だった。ZAPUからZANUが分裂した背景には、ンコモの穏健路線に対する、シトレとムガベの急進派が反発したためだった。この分裂の切っ掛けとなった「反ンコモ・キャンペーン」は、NDP時代にムガベが組織した下部組織である「青年部」(Youth Wing)によって支援されていた。

ZANUはPCCとの派閥抗争に明け暮れており、効果的な運動を展開出来なかった。また、1964年6月22日にはシトレが逮捕され、1964年8月21日にはZANUとPCCは非合法化される。そのため、1964年6月にZANU執行委員はスミス政権がUDI(イギリスからの一方的独立宣言)を実施した場合に、実行するべき行動を定めた計画書である「クラリオン・コール」を作成していたが、1965年11月11日にスミス政権がUDIを実行した際には、なんら有効な活動を実施することが出来なかった。

ジンバブエ・アフリカ民族解放軍 "ZANLA"
トンゴガラ

ZANUは、PPCの国外組織であるZAPUの、ルサカ支局に匹敵するような支局をもっていなかった。公務局長ムコノ(Noel Mukono)がタンザニアのダニエスサラームにおいてゲリラ訓練を計画していた。1966年にチテポ(Herbert Chitepo)が、ZANUを指導するようになってから、ZANUもルサカに本拠地を構えることになった。

また、ZANUはUDI以前の時期に、ゲリラ活動を行っていなかったわけではなかった。ZANUクロコダイル・グループ "ZANU Crocodile Group"は、1964年7月にヨーロッパ人農園主を殺害するゲリラ活動を行った。また、ZANUは1964年9月から1965年3月にかけて、40名のゲリラ兵をガーナに送り込み訓練をうけさせた後、1965年4月にローデシア国内に送り込んでいる。1965年にはZANUの軍事部門として、ジンバブエ・アフリカ民族解放軍(Zimbabwe African National Liberation Army, 以下ZANLA)がタンザニアにおいて結成された。ZANLAの指揮官は、チテポ(Herbert Wiltshire Chitepo)とトンゴガラ(Josiah Magama Tongogara)だった。

1966年4月22日、ZANLAのゲリラ部隊とローデシア軍は、シノイアで最初の大きな交戦を行った。この日をアフリカ人解放組織は「チムレンガ・デイ(Chimurenga Day)」と呼んだ。

ZANUは主として、中国から支援を受けており、ZANUのゲリラ兵の訓練は、中国、キューバ、ガーナ(1966年2月のエンクルマ失脚まで)、エジプトで行われていた。

ZANUとモザンビーク

ローデシア北東部における、ZANUのゲリラ活動は、1972年12月、同地域のヨーロッパ人農園(センチュリー農場)が攻撃され農園主が殺害されたことによって、明らかになった。実際には、ZANUは1972年半ば頃からローデシア北東部への侵入を開始し、ゲリラ兵の徴募を行い、モザンビークから武器を運び込み、ゲリラ兵は農業労働者を装って準備を整えていた。それ以降、ZANUのゲリラ兵によるヨーロッパ人農場に対して攻撃が頻発するようになる。

このようなZANUの活動は、ローデシア国境に接する、モザンビークのテテ州をFRELIMOが解放し、同地域でZANUが活動する協定が、FRELIMOとZANUの間で結ばれたからだった。

ローデシア北東部でZANUの活動が容易だった理由としては、ローデシア軍がザンビア国境地帯ほどモザンビーク国境に対して防御態勢を敷いていなかったことと、モザンビーク国境にはザンビア国境にあるザンベジ川のような侵入の障害になるような地形がなかったことが挙げられる。

また、この時期、ZANUは武力闘争の戦略転換を行っていた。1973年9月14日から16日にかけてZANUの最高評議会(Dare ne Chimurenga)においてチテポは、従来は政治闘争を軽視し、軍事攻撃にのみ終始していたが、1969年から1972年のあいだに戦略は変更されたとした。変更された新戦略では、敵に攻撃を仕掛ける前に、アフリカ人民衆を政治的に教育し、動員することを重視していた。すなわち、敵を攻撃する前に、アフリカ人民衆を味方に付ける戦略だった。ローデシア北東部でのZANUの活動は、この新戦略に基づいて実施されていた。

ムガベの台頭
ムガベ

ZANUはその後、組織内部での権力闘争が大きくなり、1975年3月に議長チテポが暗殺されるまでになった。この権力闘争の結果、N・シトレは組織内での実権を失い、ムガベがZANUの指導者として台頭してきたのであった。

ZANUでの実権を失ったN・シトレは、ANCの国外組織として結成された、ジンバブエ解放評議会(Zimbabwe Liberation Council)の議長に選出されたが、ANCが分裂してしまったため、なんら機能することなく消滅した。N・シトレは1976年9月にANCを脱退し、ムゾレワとも決別し、あらゆる組織基盤を失ってしまった。

1976年10月9日に、ZAPU議長ンコモとZANU議長ムガベによって、統一戦線であるPFが結成され解放組織の統一が実現した。ローデシア紛争において、最終的に、ZANU-PFは15000名から20000名のゲリラ兵を、ローデシア国内に送り込んでいた。ZANU-PFの機関誌によると1978年末までに国土の約85%を作戦地域とし、1979年7月から8月には95%以上となり、その3分の1の地域に解放区を建設していた。

ZANLAの最高司令官トンゴガラがランカスター・ハウス会議の開催中に平和的な解決に向けて積極的に活動しており、ZANLAが武力による解決だけを目指しておらず、和戦両方の構えであったことが解る。

穏健派解放組織とスミス政権の内部解決

統一アフリカ民族評議会 "UANC"

スミス政権は1977年のはじめから、武力闘争を行わないローデシア国内の解放組織を相手に、問題の解決をはかろうとする「内部解決」を計画していた。内部解決とは、国内に在住するアフリカ人指導者との提携によって、キッシンジャー提案を一方的に履行し国際的な承認を受けて、PFのゲリラ活動を鎮圧するための支援を外部から受けることを意図したものだった。

内部解決が具体的に動き出したのは、1977年11月に入ってからで、スミス政権は、統一アフリカ民族評議会(United African National Council, 以下UANC、1974年12月9日に結成)のムゾレワ、アフリカ民族評議会シトレ派(African National Council Sithole, 以下ANC-S)のシトレ、ジンバブエ統一人民機構(Zimbabwe United People's Organization, 以下ZUPO)のチラウ(Jeremiah Chirau)等とともに内部解決交渉を行った。

シトレとムゾレワが内部解決の交渉に参加した理由は、OAUとフロントライン諸国がPFをジンバブエを代表する唯一の組織と承認したため、シトレとムゾレワが解放運動の中で孤立したことが理由だった。つまり、内部交渉に参加する以外には、シトレとムゾレワがナショナリストとしての主体性を主張することが出来ないような状況に追い込まれたのだった。

スミス政権にとっても、ムゾレワの参加は内部解決を正当化するための必須条件だった。なぜならば、ムゾレワはアフリカ人民衆の間に、大きな支持基盤を持っていたからだった。また、ムゾレワは急進的な社会主義者ではなく、資本主義と社会主義の長所を取り入れた「ジンバブエ社会主義」という穏健な思想を持っていたため、スミスはムゾレワを交渉相手に選んだのだった。

ムゾレワ政権の誕生

1978年3月3日に調印されたソールズベリー協定をもとにしてジンバブエ・ローデシア憲法が起草されたが、PFとフロントライン諸国および国連安保理はそれを認めなかった。しかし、1979年1月2日には新憲法が発表されて、1979年4月17日から5日間、総選挙が実施された。その結果、ムゾレワのUANCが得票率67%、51議席を獲得して第一党となり、6月1日「ジンバブエ・ローデシア」という国名のもと、ムゾレワを首班とする黒人政権が誕生したのだった。

ローデシア紛争の終結

ムゾレワ政権は1979年12月15日、ランカスター・ハウス会議で提案された停戦協定案を受諾した。そして、暫定管理のため1979年12月12日イギリス政府からソームズ総督が派遣され、ジンバブエ・ローデシアはイギリスの植民地に復帰した。

行政機関、政府軍、ゲリラ部隊はソームズ総督の指揮下に入り、1980年2月に総選挙が実施された。総選挙は、ランカスター・ハウス協定にもとづき、1980年2月27日から29日まで、アフリカ人議席80をめぐって普通選挙人名簿による選挙が実施された。この総選挙は、ZANU-PFが57議席、 PF-ZAPUが27議席を獲得し、UANCは3議席という結果に終わった。ちなみにPFは選挙前に統一戦線を解消し、各々ZANU-PFとPF- ZAPUとして選挙戦を戦った。こうして、ZANU-PFのムガベがジンバブエの政権を握ることになった。